第50回大会 全体会の詳細

全体会・統一テーマ
 「近現代朝鮮における「戸籍」と境界」のねらい

 今大会では、近現代の朝鮮における「戸籍」をテーマとする。本テーマ設定のポイントは戸籍が持つ境界創出の機能に注目することにある。
 国家は戸籍制度の運用により国籍や民族、居住地・職業・性別・戸主との関係等による差異すなわち境界を必要に応じて設定して人びとを把握してきた。近代、帝国日本においてはその膨張の過程で台湾や朝鮮、樺太など新たに帝国に編入した地域に居住する人びとについても戸籍を通じて「帝国臣民」として包摂しようとした。一方で関東州や南洋群島には戸籍制度を適用しないという意味での境界を創り出していた。
 朝鮮人については、対外的には日本国籍者として扱いつつも、本籍地を基準として「内地人」「外地人(朝鮮人)」の区別を維持し、これによってそれぞれの法的地位に差を設けた。日本は一九四五年の敗戦後も朝鮮人を独立国の民として扱わず、旧来の戸籍を有効とし、戸籍による境界を維持し、サンフランシスコ講和条約の発効とともに一方的に日本国籍を喪失させた。
 とはいえ戸籍は決して万能なものではなかったという側面も見落とせない。国家は人々の完全な把握を目指したが、あらゆる場面で戸籍から漏れる人びとも存在していた。人びとの側は国家によって設定された境界をある場面では易々と越えてしまう(国家の意図しない形での就籍、意図的に戸籍から漏れることで支配をすり抜ける、移動により「国境」を越える、国籍を選択するなど)こともあった。戸籍によって個々人を把握し支配しようとする国家と、支配される人びととの間には相克状況が存在したのである。
 今大会では特に甲午改革以降に注目し、四本の報告を通じて、いかなる支配意図で戸籍による境界が創り出されたのか、境界をめぐってどのような矛盾が存在したのか、事例に基づいて考察する。報告は山内民博氏、遠藤正敬氏、李正善氏、権香淑氏の四名に依頼した。
 山内民博氏の報告は新式戸籍の編成と戸口調査に地方社会や民がどのように反応・対応したかを論じる。遠藤正敬氏の報告は「日本臣民」とされた人々が戸籍によってどのように管理・支配されたかを広く論じる。李正善氏の報告は「内鮮結婚」から帝国日本の朝鮮統治と戸籍の問題を論じ、権香淑氏の報告は中国朝鮮族に注目することで現代における戸籍・国籍問題を扱う。
 報告者それぞれの視点から、テーマの考察を深めていただく予定である。

個別報告のねらい

一九世紀末二〇世紀初の戸口調査と新式戸籍

山内 民博

 建陽元年(一八九六年)九月に「戸口調査規則」および「戸口調査細則」が制定されると、同年末以降、その規定にしたがった戸口調査がはじまり、新たな形式の戸籍がつくられていった。新式戸籍、光武戸籍などとよばれるこの戸籍は毎年作成され、光武期をへて隆熙二年(一九〇八年)のものまで確認できる。
 新式戸籍は、規格化された戸籍表・戸籍統表の採用、家宅情報の登載など、旧来の戸籍に大幅な変更を加えており、甲午改革以降の制度変革の一環に位置づけることができる。同時に、連年実施される戸口調査の記録であるという点では、以後の民籍・戸籍と基本的に性格を異にする。植民地化以前の戸口調査・戸籍がどのようなものであったのか、本報告では以下の点に注意を払いながら考えていこうと思う。
 まず、「戸口調査規則」では戸口数の正確な把握が謳われ、漏籍漏口者の「人民の権利」は否定されていたが、実際の戸口把握率は、漢城など一部地域を除いて高くなく、国家の把握できた全国戸口数は新式以前よりもむしろ減少していた。これは旧来からの戸籍編成方式がしばしば踏襲されるとともに、民の中に戸籍拒納の動きもみられたことなどによる。また、新式戸籍は、身分制撤廃を前提に民の一元的な把握を企図したと一応は考えられるが、その記載内容には身分・性別をめぐるさまざまな記述の類型がみられた。こうした、国家が設定した戸籍による「境界」を拒否し、あるいは自らの認識・利害によって変容させていく動きを具体的に検討してみたいというのが、本報告のおもなねらいである。
 すでに新式戸籍については、現存戸籍の分析や戸政運営、日本戸籍との比較など少なからぬ研究の蓄積がある。ここではその成果に学びつつ、戸口調査がどのように実施され、それに地方社会・民がどのように反応・対応していったのか、各種地方官衙の記録・文書・日記および現存する戸籍関連史料などをとりあげていく予定である。

日本の帝国統治における戸籍と「日本人」
―操作される「国籍」「民族」「血統」

遠藤 正敬

 近代国民国家における「ネーション」は血統やエスニシティとの間で齟齬を免れない概念である。ことに、拡大した版図のなかに多様な異民族を包摂する「帝国」では、「ネーション」の混淆性がより顕著となる。個人の身分関係を登録する戸籍は、個人を「国民」として包摂しつつ、「国民」の枠内にさまざまな境界線を設けることで多元的な個人を識別し、把握しようとする。大日本帝国では、国籍で統括した「日本臣民」を戸籍によっていかに管理、支配し、また内地と植民地の間にいかなる境界線を画すことによって多民族国家の統合と安定を図ろうとしたのか。
 明治期日本に成立した戸籍は人民を天皇に服属する「日本臣民」として画定し、統合を図るものであった。いうまでもなく戸籍は家制度の根幹となり、必ず一つの家=戸籍に属するという「日本人」(臣民)の定型ができあがった。外国人は戸籍に編入されると、これが日本の法秩序に帰服した証しであり、「日本国籍」の証しとされた。
 日本は「帝国」の版図を拡張していくなかで、異民族に国籍を付与して対外的に「日本臣民」として統轄した。だが、戸籍については、帝国内の「日本臣民」を一元的に把握する統一した戸籍法ではなく、家の所在地(本籍)を不可抗的な基準として「内地戸籍」「朝鮮戸籍」「台湾戸籍」というように地域別の戸籍制度が実施された。これにより地域別に固定された戸籍の表示が「内地人」「朝鮮人」「台湾人」といった「民族」の認証となるという「民族籍」が生まれた。「日本人」という大枠の中で、この民族籍の自由な変更を禁止することによって異民族を識別・管理した。ただし、戸籍には家の原理が介在する。個人が帝国内で地域をまたいで家を出入りすることにより受動的に「民族籍」の変換が発生した。その一方、人の越境的移動が活発化し、また欧米列強の法権と欲望が交差する近代東アジアの国際空間にあって戸籍制度はさまざまな矛盾を露呈した。満洲では戸籍の管理網から漏れた、「日本人」の証明なき無戸籍朝鮮人が多数生活していた。他方、租界など日本の法域に入った中国人はこうした戸籍のメカニズムを利用することで簡便に「日本人」の地位を取得できた。このように帝国における非統一的な戸籍制度はかえってボーダレスな「日本人」社会を創り出すものとなった。したがって、植民地の戸籍制度を凝視すると「支配」「同化」「差別」といった従来の枠組みも揺らいでくる。
 戸籍は帝国日本の支配空間のなかで政治権力の道具として、いかに「日本人」を創出し、さらには「民族」という境界線を画定し、またいかなる矛盾に直面したのか。本報告では戸籍政策の検討を通して、日本の植民地支配における機会主義を理解し、「国籍」や「民族」といった概念の操作性を浮き彫りにしたい。

「内鮮結婚」からみた帝国日本の朝鮮統治と戸籍

李 正善

 帝国日本は日本内地と植民地に各々異なる法令を施行し、日本人と台湾人、朝鮮人は各地域で施行される身分登録制度(=「戸籍」)により登録・区別する法的構造を取っていた。各地域の「戸籍」は家の原理で決められたので、戸籍による法的区別は血縁による民族の区別と概ね一致した。だが、一九二〇年代初め、日本人と朝鮮人との間で結婚などの家族関係が結ばれると、当事者の本籍をほかの地域へ移すことになった。本報告では日本・朝鮮の間で戸籍の移動をもたらす家族関係を「内鮮結婚」と称し、それによる戸籍移動を分析し、もって戸籍による区別という統治の仕組みを見ていきたい。
 そのため、以下の三点に焦点を合わせ、議論を進めたい。
 第一に、帝国日本が「内鮮結婚」による地域間の戸籍の移動を許した理由である。先行研究では、統治側が内鮮結婚を促し朝鮮人を同化させようとした、あるいは帝国日本の国民編成原理である家制度を植民地にも貫かせようとしたためであると説明された。しかし「内鮮結婚」に放任的であった日本が法令を整備した理由は、その公認とともに「内鮮結婚」が引き起こしていた複本籍の問題を解決するためであった。「内鮮結婚」による戸籍の移動が決まってこそ、「内地人」「朝鮮人」という法的界線が完成されたのである。
 第二に、「内鮮結婚」法制の成立以後における両地域間の戸籍移動の推移である。ここで読み取れるのは、家族関係に限られたとはいえ、この開かれた道を活かし「内地人」となった朝鮮人の動きである。そもそも日本政府は朝鮮人が内地戸籍を手に入れようとする事態を憂慮し、随意の転籍は禁じ、「内鮮結婚」による強制・自動的な戸籍移動だけを許したのである。ところが、とくに朝鮮人男性のなかに社会的・経済的利益を求め、入夫・婿養子、養子縁組、親族入籍などを通じ、「内地人」となる道を選んだ人々があった。差別構造が存在する以上、朝鮮人の内地籍を求める動きは絶えなかったのである。その結果、「内地人」「朝鮮人」の区別はありながら、「内地人」に朝鮮人が混ざり込んでいくようになる。
 第三に、日本の朝鮮統治における民族区別の論理と戸籍との関係である。戦争中の一九四四年、朝鮮総督府は禁じられていた地域間の随意の転籍を許可する代わりに、「内鮮結婚」による自動的本籍の移動には歯止めを掛ける法律案を提案する。皇民化の程度が高い朝鮮人だけを「内地人」にするこの案は、家から文化へ原則をすり替えながらも、戸籍による民族区別という仕組みは保つものであった。「内鮮結婚」に伴う戸籍の移動は、戸籍による民族の区別を補うため許されたが、その隙間を広げ、境界を越える朝鮮人が存在したため、統治側は区別界線の転換を検討せざるをえなかったのである。

中国朝鮮族の移動と戸籍・国籍問題の射程
―一九九〇年代以降における「家族分散」の事例から―(仮)

権 香淑

 本報告の目的は、中国朝鮮族(以下、朝鮮族)の移動、とりわけ一九九〇年代以降における再移動(twice migration)が大規模に行われるなか、移動先の国家や地域における戸籍・国籍を通した包摂と排除の論理に対し、移動する側が、当該国家や地域における規制を如何にして迂回し、すり抜け、折り合いをつけながら、境界の持つ意味を相対化/補完しているのかについて、考察することにある。
 今日、中国の一少数民族として位置づけられている朝鮮族の歴史は、「移動」というキーワードを抜きには語れない。そもそも朝鮮半島からの移住民である朝鮮族は、国境を挟んで地続きの朝鮮半島に同民族が暮らしていることから、中国では跨境民族と称されるが、その移動性は、ほかの少数民族に比して非常に高いと言われる。このような移動性に対する従来の研究では、@社会構造という外的要因からの説明、A文化的特性という内的要因に着目する分析、あるいはBその両方の絡み合いから問題を捉える手法などによって、解明がなされてきた。本報告では、社会構造及び文化的特性の絡み合いから捉えるBの立場を前提にしつつ、かかる本質的な問題が凝縮的に反映されていると思われる戸籍・国籍問題に焦点を当て、分析を試みる。
 本報告で取り上げるのは、東アジアに跨る朝鮮族家族の事例である。「兄は上海でビジネス、父母は韓国で出稼ぎ、私は日本に留学」といった言い回しに象徴される家族分散の実態は、今や朝鮮族社会では珍しくない。当然ながら、それぞれの家族が置かれた状況は極めて多様であるものの、国境を跨いた家族空間の変容は、朝鮮族社会において日常的に見受けられ、一般的な現象だとさえ言える。このような移動のプロセスまたは結果としての家族分散は、戸籍・国籍による国家の管理や規制などから、どのような影響を受けているのか。また、移動する者は、如何なる方法や仕方によってそれらに対応し、戸籍・国籍を機能的に流用しているのか。本報告では、このような問いに答えるべく論を進めていく。
 総じて、本報告では、一九九〇年代以降の朝鮮族の移動を、現代における国民国家形成と国民統合へのある種の挑戦として捉え、戸籍・国籍をめぐる管理、規制などの実態及び問題点の解明に資する素材の提示を目指したい。

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