第59回大会 全体会の詳細

全体会・統一テーマ
「東西冷戦期における朝鮮半島と東アジア」のねらい

 二〇二二年はサンフランシスコ平和条約発効から七〇年を迎える年である。サンフランシスコ平和条約は朝鮮戦争の真っ最中に締結され、日米安保条約(旧)が同日に発効したことを考えても、「平和」とはいいがたい状況で締結・発効したといえる。両条約が締結・発効した前後は、まさに世界的に米国とソ連を中心とする東西冷戦構造が形成・深化した時期である。その中で、朝鮮半島においては「熱い」戦争が繰り広げられ、その後は南北分断の固定化とともに強権的な統治が行われた。

 一方で、東西冷戦期における南北朝鮮の戦争は、米国を中心とする資本主義陣営(西側)とソ連を中心とする共産主義陣営(東側)による代理戦争的な性格を帯び、周辺のアジア社会にも多大な影響を与えた。日本は朝鮮戦争を契機に警察予備隊が創設され、朝鮮特需により経済復興の基盤が固められた。米国の占領下にあった沖縄はB―29が朝鮮半島へ向かう、出撃・補給基地としての役割を果たした。中国は「抗美援朝」をスローガンとし、毛沢東の支配体制を確立していった。朝鮮戦争は一九五三年に休戦となり、現在もなおその状態を維持している。

 朝鮮戦争後、米国との関係を強化する李承晩政権と、中国・ソ連との関係を強化する金日成政権の対立が強化され、周辺の日本・沖縄・中国と連関していく様相は、東西冷戦において南北朝鮮が当事者であることを示す。朝鮮戦争中の日韓会談の開始は植民地支配の清算という文脈からではなく、米国を中心とする資本主義陣営の中に日韓が組み込まれていくことを意味し、朝鮮民主主義人民共和国と中国との関係強化は、その対抗軸として機能した。

 これまで朝鮮史研究会大会では、第三二回大会(一九九五年)「「解放」五〇年―朝鮮の分断と統一」、第四五回大会(二〇〇八年)「解放と分断を問い直す―一九四八年前後史」、第四八回大会(二〇一一年)「朝鮮現代史と在日朝鮮人」をテーマとし、東西冷戦期における朝鮮半島の分断状況および在日朝鮮人をめぐる諸問題について検討した。また、各大会ではこれら諸問題と植民地主義との関係が論じられ、ポスト植民地・ポスト冷戦にまで踏み込んだ議論が行われた。

 近年、東西冷戦と朝鮮半島との関係については、外交史や文化史的側面から論じられている(木宮正史氏・板垣竜太氏・宋恵媛氏など)。第二次世界大戦後の秩序形成の中で、朝鮮半島をめぐる東アジアの情勢はどのように変化したのか。今回の大会では、長い東西冷戦期の中でも特に朝鮮戦争勃発から日韓条約締結前後の一九五〇年代〜一九六〇年代に焦点をあて、旧植民地の出身者である在日朝鮮人、「日本」と米国のはざまで揺らぐ沖縄、朝鮮民主主義人民共和国と密接な関係を持ち共産主義陣営に立つ中国における朝鮮族、これら三者からの視点を通して東西冷戦をめぐる朝鮮半島と東アジアの様相を明らかにしていく。朝鮮半島の「周縁」の状況に注目することで、東西冷戦期に様々な影響を受けた朝鮮半島を逆照射することを目的とする。

 このような趣旨に基づき、本大会では李英美氏・成田千尋氏・李海燕氏の三名にご報告いただく。李英美氏には、戦後日本の出入国管理政策の展開について、とくに一九五〇年代における大村収容所の被収容者の処遇問題を中心に、旧在朝日本人および旧朝鮮総督府日本人官吏らの活動と保護団体の関わりを検討していただく。成田千尋氏には「冷戦前期における韓国・沖縄の通商関係」というテーマで、同時期の韓国と沖縄との間の通商関係構築の試みについて、米国の意向や日韓関係の影響にも焦点をあてて報告していただく。李海燕氏には東西冷戦前期に普及される「朝鮮族学校」という教育空間への考察を通じて、朝鮮族のアイデンティティーの形成のプロセスとその内容、歴史的意味を検討していただく。

 以上、三氏の挑戦的かつ斬新な視点からの報告に加え、高江洲昌哉氏・金鉉洙氏にコメンテーターを務めていただく。高江洲氏からは沖縄近現代史を中心とする日本近現代史の視点、金鉉洙氏からは東西冷戦期の日韓関係を軸としたコメントをいただけるものと期待される。

 諸報告とコメントを通じて、東西冷戦が朝鮮半島と周辺地域にもたらした影響とその歴史的意味を再評価し、議論を深める機会としたい。

個別報告のねらい

戦後日本の入管政策における旧朝鮮総督府日本人官吏の活動
―一九五〇年代の大村収容所の相互釈放と保護団体を中心に―

李 英美

 本報告では、戦後日本における出入国管理政策の展開において、一九五〇年代における東アジア情勢の変動を背景とした大村収容所の被収容者の処遇問題において、旧在朝日本人および旧植民地官吏らが果たした役割について検討する。これまで先行研究においては、戦後日本における出入国管理政策の注目すべき点として、立法に関わる者が内務省、法務府、入管庁を中心とする行政権内部に限られていたこと、また、戦後の入管担当者が一時的に警察の系譜を引いていたことが明らかにされてきた。だが、このような敗戦後の日本における入管行政の展開にみる植民地支配との連続性という問題は、主に入管の政策担当者たちの人事的系譜においてのみ指摘がなされてきた。

 一方で、一九五〇年代における入管行政において、朝鮮人をはじめとする旧植民地出身者らの在留・移動を取り締まる最前線に位置した大村収容所(長崎県大村市)では、日韓会談を背景に、韓国政府が大村収容所からの送還者の一部を「逆送還」する問題、それに伴う収容所の「過剰収容」と「長期収容」の問題などが発生していた。日本政府は、大村収容所における問題への対処―収容者の仮放免、在留特別許可の運用―に、特定の保護団体を活用していく。これら各保護団体の活動において中心的な役割を成していくのは、旧在朝日本人や旧朝鮮総督府日本人官吏たちであった。本報告では、とくに旧朝鮮総督府日本人官吏の戦後の政治・言論活動に注目しながら、日本政府による在日朝鮮人問題への対策と、大村収容所の被収容者の受け入れをめぐる各保護団体の活動とが交錯するなか、植民期の人脈及び経験がいかに「戦後」の出入国管理の現場において立ち現れるのかを検討していく。

冷戦前期における韓国・沖縄の通商関係

成田 千尋

 東西冷戦期における沖縄と朝鮮半島の関係は、朝鮮半島の南北の分断構造に大きく規定されてきた。すなわち、沖縄と同様に米国の影響下に置かれた大韓民国(以下、韓国)は、多くの米軍基地を擁する沖縄を「反共の要」と捉え、自国の安全保障にとって不可欠な存在と見なし、同様に反共的な立場を取る沖縄の経済界や保守政治家と関係を構築しようとした。これに対し、韓国と敵対する朝鮮民主主義人民共和国は、米軍基地への反対あるいは撤去を主張する沖縄の革新勢力に共感を寄せ、復帰運動に対する支持を表明していた。このような対立構造は、一九六五年以降、沖縄の日本返還が具体化していく中でより明確化していくが、本報告ではそれ以前のサンフランシスコ平和条約締結前後から日韓基本条約締結までの時期にかけての、韓国と沖縄の通商関係の変遷を明らかにすることを目的としている。

 これまで同時期の沖縄については、主に国際政治史・外交史、あるいは社会運動史などの分野で、沖縄の帰属問題(沖縄返還問題・復帰運動など)に関する実証的な研究が蓄積されてきた。近年は、より多様な観点から検討がなされるようになっており、日本復帰運動の中心となっていた「革新勢力」だけではなく、復帰時期尚早論を唱えていた保守側の経済人や政治家についても少しずつ研究が進みつつある。また、韓国政府及び「反共」の立場から強い提携関係にあった台湾の中華民国政府が、沖縄との通商関係の構築に積極的であり、一九五〇年代後半には沖縄―韓国、沖縄―中華民国間で通商使節団などを交換していたことについても、多くはないが記録が残されている。しかし、中華民国と沖縄との間には一九五八年の中琉文化経済協会の成立にみられるように、長期にわたって比較的強い関係が構築されていったのに対し、冷戦前期の韓国と沖縄の間にはそれに比した組織が結成されることはなく、関係の構築の試みも一貫したものではなかった。本報告では、韓国・沖縄の双方に影響を与えていたと考えられる米国の意向や日韓関係の変化にも焦点を当てつつ、両地域間の通商関係の変遷を実証的に明らかにすることを試みる。このことにより、「日本」という国家の枠組みに収まりきらない地位にあった米軍統治下の「琉球/沖縄」の政治・経済状況について、韓国との通商関係というあまり研究が進んでいない側面から、より立体的に浮かび上がらせることを目標とする。

 冷戦前期における新世代朝鮮族のアイデンティティの形成
―「朝鮮族学校」という教育空間への考察を通じて―

 李 海燕

 冷戦期の朝鮮族とそのルーツがある朝鮮半島の関係をみると、「米帝」(アメリカ帝国主義)陣営の一部となった大韓民国とは物理的に断絶されたため、中国と同盟関係にあった朝鮮民主主義人民共和国との関係性の変化が課題となる。戦後大規模の引揚げを経ておよそ一〇〇万人の朝鮮人が中国東北部に残ったが、彼らの国籍については一九四八年夏には政治的な決着がついていた。ゆえに、冷戦前期に形作られる朝鮮族のアイデンティティの内実や形成過程の解明が重要になってくる。

 アイデンティティ、とくにナショナル・アイデンティティについての理論は百家争鳴の状況であり、本報告では史料用語である「祖国観」を中心に議論を展開する。それは一般的に、国家が管理する教育を通じて伝達されると考えられている。冷戦前期にほぼ普及されることになる朝鮮族の小中学校教育が新世代のアイデンティティの形成に重要な影響を与えることはいうまでもないだろう。また、同時期は中国、北朝鮮の建国期で、さまざまな分野においてその方針と枠組みが形成されていて、教育政策も同様である。

 本報告では、戦後教育熱が高じた東北地区の朝鮮人教育が、冷戦前期に「朝鮮族学校」として新生社会主義国家の少数民族教育システムに組み込まれていくプロセスを追うが、具体的には、「朝鮮族学校」という教育空間がいかなる政治環境のもとで誕生・運営・展開され、その空間のなかではどういうアイデンティティを持つ学生の育成が目指され、それはその後の朝鮮族の朝鮮半島との関係性にどのような影響を与えることになるのか、などを解明することがねらいである。

 同時期の朝鮮族に関する研究は、朝鮮語純潔化などの言語政策や文化大革命期の政治史をめぐって行われていて、東西冷戦という視点が欠如しているといえよう。本報告の試みは、まず、「朝鮮族学校」を一つの空間として捉えることで、より立体的で包括的なアプローチを行うことである。政治的な色彩がきわめて強くなっていくこの時代を理解するには、言語やカリキュラム研究だけでは限界がある。また、アイデンティティや「祖国観」などの意識の動向を考察するにあたって、世代という視点を取り入れる。そして、戦前の民族教育、皇民化教育との連続性や断絶性を抑えたうえで、その歴史的な意味を考える。最後に、中央政府の政策史だけでなく、朝鮮族大衆(父兄)の主体的な動向とそれに対する地方政府の対応という軸で考察を行う。

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