大会

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[ 第61回大会 全体会の詳細 ]

【日時】 2024年10月19日(土)、20日(日)

【会場】 学習院大学 目白キャンパス 南3号館201教室 (アクセスマップ キャンパスマップ

【参加費】 一般 ¥1,500  学生 ¥1,000

   受付作業円滑化のため、10月17日(木)までにこちらの参加申し込みフォームから参加申請をお願いいたします。

第一日 10月19日(土)

受付 13:00~
開始 13:30

講 演

  • 馬渕 貞利氏 「近代東アジア史における甲午農民戦争」
  • 木宮 正史氏「激動する国際政治の中での韓国・朝鮮半島の軌跡と展望-冷戦・分断体制下の体制競争からポスト冷戦下におけるポスト体制競争の新たな展開へ-」

総 会 16:00~ (会員のみ)

懇親会 18:30~ 一般5,000円・学生4,000円


第二日 10月20日(日)

受付 9:30~
開始 10:00

報 告

コメント

  • 大野 晃嗣氏
  • 鈴木 開氏

総合討論


全体会・統一テーマ
「東アジア史上の「壬辰戦争」 ―倭城と降倭をめぐって― 」のねらい

 壬辰戦争(一五九二~九八)――豊臣秀吉の朝鮮侵攻によって引き起こされた日・朝・明三国戦争――に関しては、第二次世界大戦以前から現在に至るまで、膨大な研究が積み重ねられてきた。それらの研究は、戦争の背景・推移・実態、朝鮮社会・日本社会への影響、東アジアにおける文化・技術の伝播など、実に様々な面にわたっている。また特に近年では、壬辰戦争の記憶をめぐる研究が進められており、壬辰戦争が近現代史上の問題でもあることが示されている。

 ところで、この戦争から直接的に最も大きな被害をこうむったのは、ほとんど唯一の戦場となった朝鮮であった。戦後の朝鮮では、荒廃した国土の復興が急がれるとともに、各方面での改革が推進されていき、また後代に続く一定の社会変動が惹起ないし促進された。朝鮮史研究において、壬辰戦争を境にして、朝鮮時代が前期と後期とに区分されてきたゆえんである。

 しかし一九八〇年代に入る頃から、時期区分は歴史の内在的な契機に基づいて行われるべきであるという考えの下、外侵である壬辰戦争を画期とする時期区分は見直しも行われてきた。こうした時期区分の見直しは、朝鮮史上における壬辰戦争の影響を相対化する必要性を喚起していると言えるであろう。

 だが、そうした見直しは、壬辰戦争を朝鮮史という一国史的枠組みの中で捉える立場からのものであることに注意する必要がある。これに対して、近年、壬辰戦争を一国史的枠組みから解放しようとする企図が活発化し始めている。それを象徴しているのが「壬辰戦争」という呼称の登場である。この呼称は、鄭杜熙・李璟珣編著『壬辰倭乱―東アジア三国戦争―』(ヒューマニスト、二〇〇七年)においてはじめて本格的に提唱されたが、その提唱の目的は、①この戦争に対する国際的に通用し得る呼称を創出すること、ひいては、②この戦争を各国の歴史の一部としてではなく、東アジア史の問題として捉えることであった。そして同書では、「自国史に閉じ込められていた壬辰戦争」を「東アジアという国際舞台から新たに検討」しようとする研究が試みられた(同書日本語訳版二六頁※)。しかし、そうした試みは、まだ緒についたばかりであるとも言える。

 そこで本大会では、「東アジア史上の「壬辰戦争」」というテーマを掲げ、三名の研究者に報告をお願いした。

 まず川西裕也氏には、西生浦倭城の構造、およびそこを拠点とする日本軍の地域支配の具体的な様相を示していただく。次に谷徹也氏には、蔚山倭城の構造、およびそこで行われた戦闘の経緯の詳細を報告していただく。川西報告・谷報告を通じて、倭城の実態に加えて、倭城をめぐって展開した壬辰戦争の新たな諸相が見えてくるであろう。続いて長森美信氏には、降倭(投降した日本将兵)を率いて壬辰戦争およびその後の対ジュシェン(女真)戦争を戦った朝鮮武将・金景瑞の実像を示していただく。長森報告を通じては、一朝鮮武将との関係における、降倭の戦中・戦後の具体的な存在様態も浮かび上がってくるであろう。

 本大会では、これら三本の報告内容を基にして、「東アジア史上の「壬辰戦争」」に迫ってみたい。その際、大野晃嗣氏と鈴木開氏に、中国史研究者と朝鮮史研究者の立場からコメントをしていただく予定である。三本の報告と二本のコメント、そして会場での討論を通じて、〈朝鮮・明vs.日本〉という、国家対国家の戦争という枠組みではとらえ切れない、「東アジア史上の「壬辰戦争」」の一端を捕捉できればと考えている。そしてまた、この試みが、今現在の世界で起こっている戦争を考えるための一助になればとも考えている。

 ※金文子監訳・小幡倫裕訳『壬辰戦争―16世紀日・朝・中の国際戦争―』(明石書店、二〇〇八年)。


個別報告のねらい

壬辰戦争における日本軍の地域支配と倭城
―講和交渉期の加藤清正と西生浦倭城を中心に―
川西 裕也

 壬辰戦争については、これまで日・中・韓の学界で厖大な量の研究が蓄積されてきた。しかし、研究関心の偏りや史料の問題から、ほとんど手が付けられていない論点も多い。〈日本軍と朝鮮の地域社会との関わり〉という問題もその一つである。七年間にわたる壬辰戦争は、朝鮮半島を席捲した一大戦争であった。そうした極限的な状況において、日本軍と朝鮮の人々とがいかなる関係を築いたかを問うことは、この戦争を多面的に捉えなおすことに繋がるだろう。

 戦争開始から一年後、日・明間の講和交渉が本格的に開始されたことをうけ、一五九三年四月、日本軍は全兵をあげて漢城から撤退した。その後、日本軍は慶尚道の沿岸部に十数ヵ所におよぶ「倭城」(日本式城塞)を築き、そこを拠点に、数年間にわたって周辺地域を支配統治した。倭城は日本軍とその支配地域に暮らす朝鮮人との接点になったのである。

 朝鮮における日本軍の地域支配、そして支配の拠点となった倭城の実態はどのようなものだったのだろうか。これらの問題については、日本史研究者である太田秀春氏や村井章介氏によって検討が進められたが、史料的限界から、様々な倭城とその支配地域を取りあげた概括的研究が主をなしてきた。しかし、日本軍は各地の大名軍の集合体であるため、個々の大名軍の地域支配の有り様や、彼らが建てた倭城の構造・設備には、各大名の「個性」が反映されている可能性がある。また、戦局や講和交渉の推移にともなって、それらの要素が変化したとも考えられる。したがって本問題については、概括的な研究とともに、時期と地域をある程度限定した個別具体的な研究が重要な意味をもつと考えられる。

 本発表では、後者の研究の一環として、日・明講和交渉期(一五九三年四月~九七年七月頃)に時期をしぼり、加藤清正と、彼が築城・駐屯した西生浦倭城を取りあげる。清正は壬辰戦争における日本側のキーパーソンの一人であり、日本側・朝鮮側ともに関連史料が比較的豊富に残っているため、格好の分析対象といえる。講和交渉期における西生浦倭城の構造・施設・設備を分析した上で、そこを拠点とした清正の地域支配の有り様を浮き彫りにすることにしたい。

蔚山城の戦いの経緯とその影響
谷 徹也

 壬辰戦争の全過程において、その後の日本社会に最も大きな影響を齎したのが蔚山城の戦いであったということは、周知の事実に属する。すなわち、蔚山城の戦いにおける諸将の亀裂が豊臣政権の内部抗争を激化し、関ヶ原の戦いにおける「東軍」と「西軍」への豊臣家臣団の分裂という形に帰結したと捉えられている。

 一方で、蔚山や蔚山城自体への着目は、韓国の学界や日本の倭城研究で成果が見られるくらいであり、その実態を知る手がかりは意外にも少ない。特に鍋島報效会所蔵の『朝鮮軍陣図屏風』のインパクトが極めて強いためか、むしろ後世のナラティブの比重が大きく、実像が掴みづらい状況にあるといえる。状況は韓国でも似通い、義兵に関する顕彰や侵略戦争の終わりを告げるものとして記憶されている。

 そこで本報告では、従来あまり用いられてこなかった蔚山城や戦闘に関する史資料に光をあてることで、周知の史料にも新たな解釈をほどこし、もって、蔚山城の戦いの経緯とその影響をより立体的に捉えることを目指す。

 具体的には、まず、蔚山城の戦い以前の当該地域の状況を整理する。ついで、蔚山倭城(島山)に関する複数の絵図を比較検討し、文献史料のみならず、縄張図や測量図を用いてその信憑性を分析する。加えて、そこから得られる情報を既知の史料群と照らし合わせ、蔚山倭城の実態に迫る。さらに、戦い後における蔚山城での軍評定を考察し、情報操作の構造やその後の戦線縮小問題や大名間相論に発展していく過程を掘り下げる。

 以上の検討を踏まえ、国際戦争としての壬辰戦争が近世日本社会の形成に及ぼした歴史的意義や、それぞれの学問領域から照射される位相の差異に言及し、〈戦争と平和〉の関係について考えてみたい。

金景瑞伝
―ある朝鮮武官の壬辰戦争と降倭―
長森 美信

 金景瑞(一五六四~一六二四)は壬辰戦争期の朝鮮を代表する武官の一人である。金景瑞の初名は応瑞、本貫は金海、字は聖甫、金応瑞が景瑞と改名したのは光海君即位を前後する時期と思われるが、その詳細は定かでない。

 没後五〇年近くが経ってから編まれた『金将軍遺事』(李時恒編)所収の「年譜」によると、金応瑞は一五六四年(明宗一九)に平安道竜岡県(現平安南道竜岡郡)に生まれた。一五八三年(宣祖一六)に武科に及第、司憲府監察(正六品)、阿耳万戸(従四品)等を経て、一五九〇年(宣祖二三)に定略将軍(従四品下)守高山鎮兵馬節制使(従三品)に任じられた。

 壬辰戦争が勃発した一五九二年、金応瑞は父を亡くしたが「起復従軍」を命じられ、喪に服すこと能わずに参戦して戦功を立てた。特に一五九三年一月、明将李如松とともに平壌城を奪還した戦いで、平壌妓生桂月香の協力を得て「倭将」を倒し大きな功績を挙げたことが『壬辰録』をはじめとする物語や野史に伝えられる〝名将〟、有名人である。芥川龍之介の短編小説「金将軍」(一九二四年)の主人公でもあるが、これらはあくまで創作である。

 一五九三年頃から金応瑞は慶尚右道兵馬節度使(従二品)、慶尚道防禦使として加藤清正軍と戦い、あるいは小西行長との和平交渉にも深く関わった。朝鮮に投降する日本将兵、すなわち降倭を多く受け入れ、彼らを積極的に活用した代表的な朝鮮武将でもあった。日本でも著名な「沙也可」こと、金忠善もまた金応瑞の下に帰服した降倭の一人である。

 戦争が終息した一五九八年以降、彼は蔚山都護府使、密陽都護府使、あるいは全羅・忠清・慶尚道等の兵馬節度使等を歴任した。ところが、一六一二年(光海君四)頃から北路防禦使、咸鏡北道兵馬節度使、平安道兵馬水軍節度使等、北方防備の任に叙せられるようになる。ヌルハチの下、成長著しかったジュシェン(女真)に備えるためである。

 金応瑞あらため景瑞は、一六一八年には明の要請を受けて、サルフの戦いに参戦した朝鮮軍の副元帥をつとめ、翌年の深河戦闘でジュシェンに敗れて投降し、約四年後に客死した。

 サルフの戦いには少なからぬ降倭が参戦したことが知られているが、そこに壬辰戦争以来の金応瑞との関係があったことは想像に難くない。日本各地から徴発されて壬辰戦争に参戦した日本将兵の一部は、金応瑞という朝鮮武官と出会い、「降倭」として異郷の地で暮らすことになった。そして、激動する東アジアの国際情勢のなか、朝鮮軍の一員としてジュシェンと戦ったのである。

 本報告では、創作のなかの英雄である金景瑞の実像を復元するとともに、金景瑞という一人の朝鮮武官を通して壬辰戦争中の朝鮮武官と降倭との関係、また彼らの戦後について考えてみたい。