大会

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[ 第62回大会 全体会の詳細 ]

【日時】 2025年10月18日(土)、19日(日)

【会場】 明治大学 明治大学駿河台キャンパス リバティタワー1022教室(東京都千代田区)
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【参加費】 一般 ¥1,500  学生 ¥1,000

   受付作業円滑化のため、10月16日(木)までにこちらの参加申し込みフォームから参加申請をお願いいたします。

第一日 10月18日(土)

受付 13:00~
開始 13:30

講 演

  • 池内 敏 氏 「近世日朝関係と「鎖国」」
  • 外村 大 氏 「在日朝鮮人にとっての戦後日本・本国」

総 会 16:00~ (会員のみ)

懇親会 18:30~ 一般5,000円・学生4,000円


第二日 10月19日(日)

受付 9:30~
開始 10:00

報 告

コメント

  • 高 榮蘭 氏
  • 伊藤 晃 氏

総合討論


全体会・統一テーマ
共産主義運動を再考する―朝鮮共産党結成百周年によせて―」のねらい

 今年、二〇二五年は朝鮮共産党結成百周年にあたる。朝鮮近現代史、とりわけ独立運動史や解放直後史、あるいは朝鮮民主主義人民共和国の歴史を研究する者にとって、朝鮮共産党という存在は決して無視することのできない重要な存在であるが、共産主義をどのように捉えるべきかについてはこの間あまり議論がなされていないように思われる。「人類の進むべき未来像の一つ」というイメージが漠然とであれそれなりに共有されていた時代とは異なり、ここ三十年ほどは共産主義=独裁というイメージが支配的となった結果、歴史教育や研究の場においても共産主義については積極的な言及を避ける雰囲気があるように感じられてならない。

 共産主義運動の歴史のなかに指導者崇拝という形で現れた一種カルト的とも言うべき側面があったことは間違いのない事実であり、歴史を学ぶ者としてそこから眼を背けることはゆるされないが、その一方でその運動を「誤った思想」といったものに還元してしまうことにも警戒すべきだろう。多くの地域において共産主義運動は何よりも大衆運動として存在したのであり、これは朝鮮近現代史においても同様であった。もちろん植民地支配下の朝鮮において共産党は非合法であり、共産党の名で大衆運動を展開することは不可能であった。しかし合法ないし半合法的な領域においても共産主義者たちは活動しており、新幹会なども共産主義者たちの活動抜きには考えられないものであった。

 このような歴史を振り返るなかでわたしたちが取りこぼしてはならないのは、党の指導理念や路線ではなく、大衆が作り出したものとしての共産主義運動の姿であろう。中国や日本より早い時期から海外に亡命した人々の間で結成が模索されては失敗を繰り返していた朝鮮共産党が一九二五年に非合法的にではあれ結成されえたのも、朝鮮社会内での大衆運動の高揚によるものだったのであり、朝鮮総督府の側が何よりも恐れていたのも共産主義と大衆運動との結合であった。

 今大会では、抽象的に想定された労働者階級ではなく大衆との具体的な関わりのなかで共産主義運動がどのように模索され実践されたのか、そしてそこからわたしたちは何を学んでいくことができるのかをともに考えてみたい。そのため、細かい実証にのみ拘泥するのではなく、実証を踏まえたうえで既存の歴史像そのものへの再考を迫るような挑戦的な報告と討論を目標としたい。

 報告者の金玲進氏には植民地朝鮮の社会主義運動が大衆運動との接点をいかに作っていったのかを言論メディアの地域支社を中心に発表していただき、影本剛氏には朝鮮のプロレタリア芸術運動の大衆化論における技術の問題を文学者の権煥を対象にして発表していただき、鄭栄桓氏には再建された朝鮮/日本共産党との関係を在日朝鮮人運動が再構築していく過程とその歴史的意味について発表していただく。

 以上の三氏による挑戦的な報告に加え、伊藤晃氏・高榮蘭氏にコメンテーターを務めていただく。伊藤晃氏からは日本の共産主義運動研究の蓄積を踏まえてのコメントが、高榮蘭氏からは日本と朝鮮における文学・文化研究の文脈からのコメントがいただけるものと期待される。

 三氏からの報告と二氏からのコメント、さらに総合討論を通じて、朝鮮史における共産主義運動の像をより豊かなものとしていきたい。

個別報告のねらい

大衆と出会う道
―雑誌支社から見た社会主義運動の宣伝と組織―
金 玲進

 本報告は言論メディアの地域支社を媒介に社会主義運動がいかに地域の政治に参与するのかを分析することで、社会主義運動と大衆の連結網を地域政治の次元で捉えようとするものである。これは朝鮮共産党と地域社会の接点がいかに作られたのかを解明すると同時に地域社会における地域支社の在り方について探求するものでもある。これを通して社会主義運動の大衆的基盤を確認したい。社会主義運動の大衆の連結網を分析するために本報告は言論メディアの地域支社を分析したい。既存の研究は主に言論メディアの主導勢力や性格に集中していたが、言論メディアの性格が地域支社にそのまま反映されるわけではない。メディアの内容が読者である大衆と出会う、その中間に地域支社が存在している。地域支社は発信者(中央言論社)と受信者(大衆)のあいだでメッセージ(内容)を伝達するチャンネルである。この地域支社はメディアの流通と配布という面において商業的性格を持つと同時に地域社会の世論を主導する役割を担う。つまり地域社会の「世論主導集団」であるといえる。

 植民地朝鮮の社会主義者たちはかつてレーニンがそうしたように、宣伝と組織の手段として言論メディアに注目した。彼らがハングル新聞である『東亜日報』や『朝鮮日報』に記者などとして加わったのも、大衆メディアを通して広範な宣伝活動をスムーズに行うことができたからである。中央レベルの介入だけでなく、地域支社も重要な活動舞台となった。ただし本報告では雑誌を中心に分析を行う。とりわけ一九二五年四月の朝鮮共産党創立以降社会主義者たちが積極的に参与した『朝鮮之光』を中心に、『現代評論』を付け加える形で扱うつもりである。この二つの雑誌は両者ともに新聞紙法によって許可されており、「時事」問題を扱うことができるという共通点を持っている。また『朝鮮之光』は朝鮮共産党の機関誌として指定されてもいた雑誌であるという点で、社会主義運動の大衆的基盤を確認するのに重要な対象である。 本報告では一九二〇年代に植民地朝鮮の社会主義者たちが言論メディアをどのように活用して大衆との接点を作りだそうとしたのかについて、一般的趨勢から具体的事例へと進むやり方で分析したい。そして『朝鮮之光』と『現代評論』の地域支社を中心とした具体的な分析は、一九二〇年代中後半の植民地朝鮮における社会主義運動が持った「合法運動」の性格を見せてくれるだろう。

芸術大衆化と技術
―プロレタリア文学者権煥(一九〇三~一九五四)の表現―
影本 剛

 本報告は、プロレタリア文学者権煥(一九〇三~一九五四)の文学表現で試みられた大衆化を「技術」という観点から再検討することで朝鮮プロレタリア芸術がつくりあげようとした新しい芸術の像を検討したい。これを通して朝鮮のプロレタリア芸術運動が朝鮮共産党再建運動に貢献しようとした点に留まらず、その志向性の下でとりくまれたプロレタリア芸術運動の社会変革の想像力を具体的に確認したい。

 検閲と弾圧のなかでいかに芸術を大衆化するかという問いは、一方ではアリランをはじめとする民謡、探偵小説や恋愛小説など、すでに人びとの人気を得ているものを通してプロレタリア芸術を広げようという主張として拡がった。しかし他方では本報告で研究対象とする権煥に代表されるように、既存の形式を否定し、全く新しい形式をつくりだそうと試みた。このような芸術大衆化をめぐる議論の前提に存在したのは、近代文学をはじめとする近代的芸術の読者・受容者から除外されていた植民地朝鮮の大衆自身の表現をどのように樹立するのかという問いであった。プロレタリア芸術とは、芸術の境界/臨界を再設定することで芸術の概念と価値自体を新しくつくりだす試みであったのだ。

 権煥のプロレタリア文学は、アジテーションとプロパガンダのために芸術性を放棄するという意味で解釈されもしたが、芸術と文学の外縁を広げる実験的な実践にとりくんだ作家であることは間違いない。かれは児童文学のメディアを通してさまざまな実作を試みただけでなく、ビラと文学の距離を縮める議論を実作においても展開していく。人びとの思想の領域ではなく感覚の領域を再編することを通して新しい展望をつくりだそうとした朝鮮のプロレタリア芸術を再検討するためにまたとない対象である。

 そのために本報告は、第一に朝鮮のプロレタリア芸術の組織であるカップ(KAPF:Korea Artista Proleta Federacio 朝鮮プロレタリア芸術同盟)研究動向を整理することで植民地朝鮮におけるプロレタリア芸術の意義を整理し、第二に権煥という人物の素描をすることで研究対象を確認し、第三に権煥のプロレタリア文学表現の特質を技術という観点から読み解いていくことで共産主義を志向する芸術がいかに想像されたのかを検討したい。

第二次世界大戦後における朝鮮/日本共産党の再建と在日朝鮮人運動
鄭 栄桓

 第二次世界大戦の終結直後、朝鮮と日本では共産党が再建された。日本の無条件降伏と連合軍による占領は、朝鮮/日本共産党に以前とは異なる幅広い活動の場をもたらした。戦前における日本と朝鮮半島での共産主義運動は治安当局により厳しい取締のもと非合法・非公然の活動を余儀無くされたことをふまえるならば、本来その活動が依拠すべき「人民大衆」と公然と結びつく可能性が史上はじめて開かれたといってもよいだろう。本報告のねらいは、こうして再建された朝鮮/日本共産党と在日朝鮮人運動の関係について、史料にもとづき検討するところにある。

 植民地期における朝鮮人共産主義者の革命運動は朝鮮、日本、さらには中国やロシアを舞台にした国境を超えたネットワークのなかで展開された。朝鮮共産党は創立後、こうしたディアスポラの朝鮮人たちを組織するため満州や日本に支部を設置していったが、一九三〇年代に入るとコミンテルンの一国一党の原則のもと、在日朝鮮人は日本共産党に、在満朝鮮人は中国共産党に所属することとなった。
日本敗戦後の日本共産党再建の過程には、以上の歴史的経緯から少なくない在日朝鮮人活動家たちが関わることになり、この関係は一九五五年に朝鮮人党員が離党するまで続いた。他方で在日朝鮮人たちは日本の枠内での活動にとどまらず、在日本朝鮮人聯盟が朝鮮の民主主義民族戦線の傘下団体となり、代表をソウルに派遣していたことからもわかるように朝鮮の新国家建設過程にも積極的に参加することを試みた。何より、活動家たちが依拠すべき「人民大衆」が、引揚・帰還や再渡日による日朝間の膨大な人流を生み出していた。こうしたなかで、在日朝鮮人の共産主義者たちは一方では日本共産党員として日本の民主革命を遂行し、他方では朝鮮の民族統一戦線の一員として新たな国家の樹立を図るとい「二重の課題」(梶村秀樹)を担っていたのである。

 本報告では、日本や韓国で近年整理・公刊された史料を用いて、在日朝鮮人たちが二つの共産党と関係を再構築していく過程とそこでの実践の課題の変遷を実証的に明らかにしたい。具体的には、帝国日本の支配領域を舞台とした朝鮮人共産主義者の革命運動が、解放後の帝国解体のなかでどのように再編されていったのか、解放前の人脈・系譜がいかに断絶、継承されていくのか、さらにはアジア・太平洋戦争終結の引揚・帰還の人流が新たな境界構築により滞留する状況にいかに対応したのか、などの問いを検討することになるだろう。