2015年8月14日、安倍晋三首相は、第二次世界大戦終結から70年という節目に当たって、閣議決定ののちに「内閣総理大臣談話」を発表した。「終戦70年」は、日本による植民地支配からの朝鮮半島「解放70年」でもある。この観点からすると、安倍首相の「談話」には、歴史的事実及び歴史認識において看過することのできない問題点がある。この「談話」が、全体として、日本による朝鮮植民地支配の事実およびそれに対する責任を系統的に否認する内容となっているからである。以下、朝鮮史研究の観点から、とくに重要と考える問題点を3点にわたって指摘する。
第一に、自ら植民地化の主体となった近代日本に対する評価である。「談話」では、19世紀日本が西洋諸国によるアジアの植民地化に対抗して「近代化」を遂行したと捉えたうえで、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」という評価を下している。しかし、いうまでもなく、日露戦争は、中国東北地方および朝鮮半島の支配権をめぐる両国間の戦争であった。開戦直後に日本は、大韓帝国に対して、その中立宣言を無視して「日韓議定書」などを強要して政治的・経済的な干渉を行い、ついには保護国化して実質的な植民地とした。「談話」の日露戦争評価は、こうした重大な歴史的事実を度外視することによってしか成立しえない。その前に起こした日清戦争においても、日本は、朝鮮の民衆運動(甲午農民戦争/東学農民革命)に参加した人々を大量虐殺し、さらに戦後に台湾を植民地化した。19世紀以後の日本の「近代化」は、近隣の国・地域とその住民の主権と人権を踏みにじり、そこで収奪と搾取を恣行したことと裏腹の関係にあったのである。「解放70年」にあたって私たちは、そのことこそを胸に刻まなければならない。
第二に、植民地支配からの独立を目指す運動とそれに対する弾圧に関する認識である。「談話」では、「第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました」と述べた後、「当初は、日本も足並みを揃えました」と論じている。戦間期の「協調外交」を念頭に、英米と「足並みを揃え」たと評することは可能かも知れない。しかし、朝鮮植民地支配に関しては、日本は「民族自決の動き」に「足並みを揃え」ることは決してなかった。1919年の三・一独立運動に対して、朝鮮総督府は厳しい弾圧をもって臨み、数多くの朝鮮人を殺傷し、また拘束した。その後に朝鮮内外で展開した朝鮮独立運動も弾圧し続けた。「談話」では、世界恐慌後の経済ブロック化が、日本に「世界の大勢」を見失なわせる契機となったと弁解している。しかし、「民族自決の動き」に対しては、日本は、19世紀の「近代化」の時期から敗戦に至るまで、一貫して冷酷な態度をとり続けたのである。なお、冷酷な弾圧が「民族自決の動き」に対する恐怖という反作用を生み、それが関東大震災直後の朝鮮人虐殺というさらなる人権蹂躙に帰結したことも付け加えなければならない。
第三に、戦時下における朝鮮人被害に対する責任についての認識の欠落である。「談話」は、アジア・太平洋戦争期における「三百万余の同胞」の命と「戦火を交えた国々」の若者の命の犠牲への言及はしているものの、植民地下にあった人々の犠牲に対する認識がすっぽりと抜け落ちている。植民地下での過酷な戦時動員によって、数多くの朝鮮人が甚大な被害を受けた。1990年代以来歴史認識をめぐる問題の焦点となってきた日本軍「慰安婦」制度も、朝鮮人強制連行も、植民地における戦時動員体制の下での大規模な人権侵害の一環であった。「談話」には、日本軍「慰安婦」問題にも関わるくだりとして、「深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たち」という表現があるが、これは、傷つけた主体をあえて語らずに女性の被害一般の問題として設定することで、日本軍「慰安婦」問題に対する日本の責任を回避するものとなっている。
以上、「談話」の内容に即して、3点にかぎって朝鮮と朝鮮人に対する植民地支配責任について述べた。こうした植民地支配責任問題は、今日に至るまで未解決のままである。1965年の日韓基本条約においては、植民地支配に対する謝罪と補償の問題はあいまいに処理された。朝鮮民主主義人民共和国との間では、国交正常化交渉さえもが中断されている。植民地支配に起因する存在である在日朝鮮人に対しては、制度的・社会的差別を解消するどころかむしろ深刻化の様相さえ呈している。植民地支配責任に対する認識を欠いたままでは、「歴史の教訓の中から、未来への知恵を学」ぶことはできない。
「談話」は、「あの戦争には何らかかわりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べている。謝罪の責務は「宿命」ではない。それは、歴史的事実を謙虚に学び、歴史的責任を誠実に果たそうとする意志の問題である。日本政府がその意志を欠くのであれば、国民は、その意志を堅持しつつ政府をただす責務を負い続けなければならない。朝鮮史研究に携わるものとしてこのことを確認し、日本政府に対して、朝鮮植民地支配に関する歴史的事実を尊重し、その歴史的責任を着実に果たしてゆくことを強く求めるものである。
2015年10月24日
朝鮮史研究会
日本政府は、本年4月1日から施行されたいわゆる「高校無償化」の実施にあたって、朝鮮学校を就学支援金の支給対象とするかどうか留保し、夏ごろまでにその可否を判断するとしました。わたしたち朝鮮史研究会幹事会は、朝鮮史研究者の立場から、かつて朝鮮学校等の外国人学校の大学入学資格除外案に反対しましたが(「大学受験資格におけるアジア系民族学校差別と排除の撤回を求める声明」2003年3月25日)、このたびの「高校無償化」における朝鮮学校除外の動きにも反対の意を表明します。
今年2月、朝鮮民主主義人民共和国政府が関与したいわゆる「拉致問題」を理由に、中井洽拉致問題担当相が朝鮮学校への就学支援措置の適用除外を主張していたことが公になり、それをきっかけとしてこの問題が政治問題として急浮上しました。制定された法令では、各種学校たる外国人学校については、本国において高校相当であることを確認できるもの、国際的な民間認定機関が認定したものについては制度の適用対象とされました。いずれの基準にも該当しない朝鮮学校については、最終的に文部科学大臣の判断に委ねられます。結論がどうなるにせよ、朝鮮学校のみが例外扱いされている点にわたしたちは注目します。このような外国人学校の区分は、外国人学校卒業生の大学入学資格を認定する基準が援用されたものです。同基準が定められた2003年においても、やはり「拉致問題」との関係で、結果的に朝鮮学校のみが例外扱いとなり、各大学の判断に委ねられるような基準が設定されました。今回、この判断基準が援用されたことに対し、わたしたちは抗議します。
わたしたちは、今回の法令が歴史の積み重ねの上にあると考えます。朝鮮学校は、日本の敗戦により植民地支配から解放された在日朝鮮人が、教育機会を奪われてきた朝鮮語・朝鮮史などを教授しようと設立した民族教育機関を起源としています。しかし、これを危険視した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と日本政府は学校の閉鎖を命令し、それに反対する1948年の阪神教育闘争を非常事態宣言まで発布して弾圧したのち、翌49年にはついに閉鎖・改組を強行しました。そこから自主学校などのかたちで徐々に再建されていったものが、現在の朝鮮学校です。その後も、日本政府は1965年の日韓条約を契機に、朝鮮学校を各種学校として認めるべきでないとする文部次官通達を発しました。にもかかわらず、各都道府県が朝鮮学校を各種学校として認可してきたことで、この通達は死文化しました。1976年に専修学校制度が設けられたときも、外国人学校は除外されました。そして2002年の日朝首脳会談以降、大学入学資格、税制優遇措置、さらに今回の「高校無償化」において、朝鮮学校は差別的な扱いを受けました。しかし既にほぼ全ての大学が朝鮮学校の大学入学資格を認めてきた、したがって実質的に「高等学校の課程に類する課程」であると認定してきたのが実情であり、今回の法令はそうした歴史の趨勢に反するものです。
中等・高等教育の無償化は、日本国も批准している国際人権規約および子どもの権利条約でうたわれており、今回の「高校無償化」はその実現を目指したものと理解できます。しかし、両条約に民族教育の権利の保障が書きこまれていることも、忘れてはなりません。今年3月の国連・人種差別撤廃委員会では、日本政府に対し朝鮮学校除外を懸念するとの勧告がありました。いま日本政府は、民族教育の保障に向けて新たな一歩を踏み出すのか、逆に新たな排除を生み出すのか、その岐路に立たされているのです。
「拉致問題」が浮上して以降、日本国内では北朝鮮敵視の風潮が強まり、その政治利用とあいまって、悪質な差別扇動が力を増しています。昨年12月に京都で起きた朝鮮初級学校への集団的な嫌がらせも記憶に新しいところです。しかしわたしたちは同時に、日本政府が幾度も朝鮮学校に警察権力を送り込んできた歴史を想起します。その最新のできごとは2007年のことで、微罪関与の容疑で、滋賀朝鮮学園に百名をこえる警察官の捜査が白昼堂々入りました。これが「北朝鮮への圧力」の一環であったことは、当時の警察庁長官の発言からも明白でした。つまり、個別政策のみならず、日本政府がこのような姿勢からの根本的な転換を示すか否かが本質的な問題なのです。
以上の点から、わたしたちは、「高校無償化」制度の実施によって、朝鮮学校の新たな排除を生み出さないことを、日本政府にたいして強く要望します。
2010年7月29日
朝鮮史研究会 幹事会
朝鮮史研究会幹事会教科書検討小委員会
2005年10月11日:検討結果を公表しました。
現在、中学校歴史教科書の検定と採択をめぐって、議論がなされています。なかでも、日朝関係にかかわる事項はこの議論の焦点の一つとなっています。
教科書の内容をめぐっては、すでに歴史教育、あるいは歴史研究の立場から多くの検討がなされています。朝鮮史研究会幹事会でも、いわゆる「教科書問題」にいかに対応すべきかについて、継続して議論を行なってきました。
その結果、私たちは、朝鮮史研究の立場から歴史教科書の記述について検討し、これを公表することが必要であると判断しました。具体的には、教科書の記述に見られる歴史的事実が正しいかどうかという問題と、その評価が妥当であるかどうかについて、近年の研究成果に照らして検討するということです。
私たちの検討は、2005年の教科書検定を通過した全8社すべての歴史教科書を対象としています。それは、第一に、各時代別の具体的な検討から明らかになる通り、それぞれの歴史教科書はほぼ同じ歴史的事項を扱いながらも、その一つ一つについての重点の置き方、記述の方法、評価がおのおの異なっており、これを具体的に比較することが各教科書の特色を浮き彫りにすることにつながると考えたためです。第二に、教科書全てについて検討することが、現在の歴史教科書全体が抱えている問題を明らかにすることにつながると考えたためでもあります。なお、地理・公民など、他の中学校教科書の記述については検討の対象としていません。
もとより、教科書の記述が、厳しい字数の制限と文部科学省の検定を前提として書かなければならないという制約を受けており、多くの執筆者がこうした制限・制約のもとで、簡潔でありながらもできるかぎり正確な叙述を行なうために努力をされていること、したがって、その記述の問題を一概に執筆者の責任として考えることはできないということを、私たちは理解しております。
しかし、教科書は、いうまでもなく中学校の生徒が歴史に学び歴史意識を育てるための中心的な教材であり、歴史を教える教員の側にとっても、どの教科書を使用するのかは、指導方法にも関連する重要な問題です。したがって、上述の制限・制約の存在を理解しつつも、私たちの見解を申し述べることには一定の意味があると考えます。私どもの検討を、教科書を実際に使う際の参考として役立てて頂けるようでしたら幸いです。
後述するように、検討を行なうにあたっては、検討の対象とする時期を便宜的に5つに区分し、これを5人のコメンテーターが担当していますが、教科書の引用、コメント等についての最終的な責任は、朝鮮史研究会幹事会教科書検討小委員会にあります。また、この検討内容について無断での転載を禁止します。
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古代~高麗
・総論
・表(教科書の引用とコメント)
(1)朝鮮半島との外交
(2)渡来人の活躍と仏教伝来について
(3)大宝律令の制定について
朝鮮1(朝鮮~開港)
・総論
・表(教科書の引用とコメント)
(1)豊臣秀吉の朝鮮侵略
(2)征韓論
朝鮮2(日清戦争~韓国併合)
・総論
・表(教科書の引用とコメント)
(1)日清戦争
(2)日露戦争
(3)韓国併合
植民地期
・総論
・表(教科書の引用とコメント)
(1)三・一独立運動
(2)関東大震災における朝鮮人殺害
(3)皇民化政策・戦時動員
解放後(現代)
・総論
・表(教科書の引用とコメント)
(1)解放・分断国家の成立
(2)朝鮮戦争
(3)日韓国交正常化
(4)日朝関係
(5)戦後補償
(6)在日朝鮮人
(1)ウェブ・ページの構成について:
このウェブ・ページにおける構成は、古代~高麗、朝鮮1(~開港)、朝鮮2(甲午農民戦争~韓国併合)、植民地期、現代(解放後)の5つとなっています。この5つの項目にはそれぞれ、教科書全般の記述の傾向について記した「総論」と、教科書の原文とこれについてのコメントを記した「表」とを掲載しています。表中の教科書の配列は出版社の名称をアイウエオ順に並べています(大阪書籍、教育出版、清水書院、帝国書院、東京書籍、日本書籍新社、日本文教出版、扶桑社、の順)。
なお、表の掲載にあたっては、さしあたり特に重要と思われるトピックのみとしております。その他の朝鮮関連の記述については、後日を期したいと思います。また、今後、さらに検討を深める中で、各総論・コメント等の内容を変更・拡充する予定です(更新については冒頭の“update”を参照)。
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大阪書籍→大書、教育出版→教出、清水書院→清水、帝国書院→帝国、東京書籍→東書、
日本書籍新社→日書、日本文教出版→日文、扶桑社→扶桑。
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(5)その他:
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石原都知事の韓国併合正当化発言を批判する声明
石原慎太郎東京都知事の10月28日の「同胞を奪還するぞ! 全都決起集会」での講演、および同31日の定例記者会見における発言は、多くの部分で歴史事実についての誤りがあり、我々の社会に事実誤認に基づいた誤った歴史認識を流布する結果となっています。私たちは朝鮮史研究者の団体として、今回の発言を看過することはできないと考え、ここに石原氏に猛省を促すとともに、正確な歴史事実に基づいた認識の必要性を社会に訴えます。
石原氏は「集会」において「韓国併合」に言及し、その中で「彼らの総意で、ロシアを選ぶか、シナを選ぶか、日本にするかということで、近代化の著しい、同じ顔色をした日本人の手助けを得ようということで、世界中の国が合意した中で、合併が行われた」と発言しています。また、「会見」では「中国・清国、あるいはロシアに併合されそうになって、それならばということで、清国のほとんど実質的な属領から解放してもらった日本に下駄を預けたということではないですかね。それが正確な歴史です」とも言っています。まるで、大韓帝国(以下、韓国)の側がロシア・清・日本のなかから日本を選択したかのような表現ですが、事実は全くこれに反しています。
日清戦争後の清は韓国に政治的に介入することはありませんでしたし、ロシアはポーツマス条約第二条において「日本国カ韓国ニ於テ政事上、軍事上、及経済上ノ卓絶ナル権利ヲ有スルコトヲ承認」していますから、介入の余地はありません。そもそも、1905年の第二次日韓協約によって外交権を日本外務省に奪われ独自に外交を展開することのできなかった韓国に、選択の自由があったはずもありません。
さらに石原氏は「総意」について「会見」で、「彼らの代表が国会なるものを持っていたのだろうから、そこで議決すれば、どれだけの比率の投票だったかは知らないけれども、いずれにしろ彼らの代表機関である合議機関、国会かどうか正確には知らないが、いずれにしろそういう政治家たちが合議して採決をしたんでしょう。だからあの問題については、あの頃は国際連盟もありましたけれども、外部の国際機関は誰も日本を誹謗する者はなかったと思いますよ」と説明しています。当時、国際連盟があったというのは論外ですが、さらに問題なのは国会に準ずる合議機関が存在し、その採決によって併合を決定したかのように強弁していることです。大韓帝国にはそうした機関は存在しません。大臣会議は存在しますが、それとても、1907年の第三次日韓協約以降は各部(部は現在の日本の省に相当)の実権は日本人次官に握られ、大臣には力はありませんでした。すなわち、併合当時の政治運営は、事実上日本人によって担われていたのであり、だからこそ日本の支配に反対する義兵闘争が激しく展開され、日本はその鎮圧に忙殺されたのです。もちろん併合も、到底国民の「総意」に基づいて行われたものではありません。併合条約は統監府と李完用首相との秘密裡の交渉で日本側の用意した条約案が押しつけられたものであり、日本軍が漢城に兵力を集中して厳戒体制が敷かれるなかで調印されたというのが「正確な歴史」です。
また、「世界中の国が合意」していたというのも、国際連盟が存在しない当時において何を意味するのか明確ではありませんが、「帝国主義列強が合意していた」というのなら理解できないこともありません。日本は、イギリスとは1905年の第二回日英同盟によってインドと韓国におけるお互いの優越権を、アメリカとは桂-タフト協定によってフィリピンと韓国におけるそれを、それぞれ確認済みだからです。その他の列強も、自らの植民地支配を正当化する以上、日本の韓国支配を批判する立場になかったことは、1907年のハーグ万国平和会議において、外交権のない中、高宗皇帝の親書を携えた密使の命がけの訴えが一切黙殺されたことからも明らかです。それを「世界中の国の合意」というのなら、石原氏の言う「世界」とはせいぜい帝国主義列強のことであり、また「合意」といっても列強がそれぞれの利権を相互に承認し合ったという狭小な意味を持つに留まります。私たちは、このことをもって、「韓国併合」を正当化することは決して出来ないと考えます。
以上述べたように、石原氏の発言は誤った事実認識に基づくものです。東京都知事という責任ある地位にあり、社会的影響力もある者の発言としては極めて不適切かつ無責任なものだと言わざるを得ません。この種の発言が我々の社会に誤った歴史認識を植え付け、日本の優越や、植民地支配・アジア太平洋戦争の正当化を主張する議論に同調する人々を増やし続けている状況を見るにつけ、私たちは暗澹たる思いを抱かざるをえません。こうしたことが、アジア諸国民の感情を傷つけ、不信を買い、結果的に安全保障においても大きくマイナスとして作用していることに石原氏は気付くべきです。私たちは、石原氏の発言に含まれた事実認識の誤りを糾すとともに、歴史研究の成果を無視した発言に対して強く抗議します。
2003年11月16日
朝鮮史研究会幹事会
大学受験資格におけるアジア系民族学校差別と排除の撤回を求める声明
文部科学省は3月6日、「大学入学に関し高等学校を卒業した者と同等以上の学力があると認められる者の指定」(昭 和23年文部省告示第47号)を一部改正して、これまで大学受検資格を認めていなかった国内の外国人学校のうち、米英の学校評価機関が認定した16校のインターナショナルスクールに受験資格を認める方針を明らかにしました。この方針どおりに決定・実施されるならば、朝鮮学校、韓国学園、中華学校などのアジア系の民族学校には、これまでどおり受験資格を認めないことになります。
この決定により、受験資格から排除される外国人学校の大半は朝鮮学校です。周知のとおり、朝鮮はかつて日本による植民地支配を受け、その中で、民族の言語・歴史などの教育は抑圧されました。日本の支配からの解放後、在日朝鮮人は、民族の言語・歴史などを教育するために、全国各地で民族教育を実施しましたが、占領軍と日本政府は、学校教育法による認可を受けていない学校の閉鎖を指示しました。それに対する抗議行動が、大阪・神戸などでおこりましたが、警察によって弾圧され、多くの民族学校が閉鎖されました。その後、サンフランシスコ講和条約が発効すると、政府は、日本国籍を喪失した在日朝鮮人は就学の義務はないとして、在日朝鮮人の生徒が無償で教育を受ける権利を否定したのです。しかし、その後も在日朝鮮人の民族学校再建への熱意は消えず、朝鮮学校が相次いで設立され、都道府県から各種学校としての認可を受けるようにもなりました。朝鮮学校だけでなく、韓国学園、中華学校などの民族学校もまた、それぞれ固有の歴史的背景を有し、長年の教育・進学の実績をもっています。そして現在では日本全国の約半数の公立・私立大学が、学校教育法施行規則第69条5号の規定を、大学が独自に受験資格を認定できるものと解釈することによって、これらアジア系民族学校の卒業生への受験資格を認めています。
文部科学省は、この度の決定に際して、上記機関の評価を採用する理由を、「当該認定団体の評価活動が国際的に定着していると認められる」からであると説明しています。しかし、では何故、朝鮮学校をはじめとするアジア系の民族学校については、何らの評価も行わないのか、論理的説明は全くなされていません。これでは、アジア系の民族学校に対して、日本政府は正当な評価を行うことを放棄しているといわざるをえません。一部の報道によると、この決定の背後には、朝鮮民主主義人民共和国に対する世論の硬化への配慮があると言われています。しかし、同国の政治体制に直接責任を負うことのできない生徒に対して、世論への配慮の名の下にこのような措置を執るとすれば、教育行政を管掌する官庁として著しく不適切であるとの誹りは免れ得ないと考えます。
私たちは、朝鮮史を学ぶ者として、歴史性を無視してアジア系民族学校を差別的に処遇するこの度の方針に強く反対します。そして、文部科学省がこの度の差別的方針を撤回し、改めて、アジア系民族学校を含め、全ての外国人学校卒業を、大学受験資格として認定することを要求します。また同時に、各大学におかれては、このような差別的な方針に左右されることなく、自主的判断を貫かれることを強く希望します。
2003年3月25日
朝鮮史研究会幹事会
[ 声明 ]
[ 「石原発言」に関する資料 ]
[ 三国人関係資料 ]
[ 石原「三国人」発言関係文献 ]
石原慎太郎東京都知事の4月9日の陸上自衛隊記念行事、およびその後の記者会見等における発言は、歴史事実についての誤りを含んでおり、日本社会から未だ払拭されていない在日外国人差別を増幅させるものです。
私たちは、石原氏の発言のなかで、特に在日朝鮮人の歴史にかかわる「三国人」発言、および大規模災害時の外国人による「騒擾」についての発言に対して、朝鮮史研究者の立場から誤りを糾し、正確な歴史事実に基づいた認識の必要性を社会に訴えます。
石原氏は4月9日「不法入国した多くの三国人、外国人」と発言し、この「三国人」という表現に批判の声が上がると、辞書には「第三国人」の第一義として「当事国以外の国の人」と書いてあり、「外国人」の意味で使ったと釈明しました。しかし言うまでもなく「三国人」は「外国人」と同義ではありませんし、そもそもここで「三国人」という用語を使用しなければならない理由は全くありません。
一方で「三国人」という語は、石原氏も認めるように、敗戦直後の時期、日本在住の朝鮮人や台湾人などを指す言葉として使用されました。この語の由来は明確ではありませんが、当時、日本の警察当局などは「第三国人」を、連合国人や中立国人ではないが、日本人とも同一の地位ではない「従来日本の支配下にあった諸国の国民」という意味で用いていました。こうした用法は、第二次大戦後に日本を占領した連合国側が、植民地支配から解放された在日朝鮮人などの法的地位を曖昧に規定したことに端を発すると思われ、日本の政府やマスコミなどを通じて広く日本社会で使用されるところとなりました。
敗戦直後「(第)三国人」という語が、朝鮮人・台湾人に対する侮蔑意識や反感を込めて使用されていたことは疑う余地がありません。そしてこのような意味での「(第)三国人」という語は、戦後長きにわたって是正されることなく使われてきました。たとえば1970年発表の劇画「おとこ道」(梶原一騎原作、『少年サンデー』連載)では、「最大の敵は、日本の敗戦によりわが世の春とばかり、ハイエナのごとき猛威をふるいはじめた、いわゆる第三国人であった!!」「殺られる前に殺るんだ、三国人どもを!!」などと記されています。こうした朝鮮人・台湾人を敵視し、侮辱する文脈で用いられた言葉をいたずらに使用すれば、朝鮮人や台湾人に対して未だに差別意識をもっていると受け止められても、やむをえないのです。
敗戦直後に日本に滞在していた朝鮮人の大多数は、日本の植民地支配の結果として日本に渡航してきた人々でした。しかし敗戦直後の日本政府は、朝鮮人を「日本国籍の保持者」として日本の法秩序に服することを要求し、民族教育運動などに弾圧を加えながら、一方で朝鮮人の基本的人権を制限しようと「外国人」として取り扱うこともしました(参政権の事実上の「剥奪」、外国人登録令の適用など)。日本政府は朝鮮人に対し、このような相矛盾する二面的な態度を取り、日本社会における朝鮮人差別も依然として温存されていたのです。 今回の石原氏の発言は、こうした「(第)三国人」という語が持つ歴史的な背景を無視し、朝鮮人があたかも日本社会に敵対する存在であるかのようなイメージ
を喚起するものであり、とうてい見過ごすことはできません。
石原氏はまた、4月9日の陸上自衛隊記念行事で、「不法入国した多くの三国人、外国人」により「大きな災害が起きたときには大きな大きな騒擾事件すら想定される」と述べ、大規模災害に際しての自衛隊による治安維持の必要性を強調しました。石原氏はさらに、4月12日の都庁での会見で、阪神大震災では騒擾事件の事実はなかったと指摘する記者に対し、「東京の場合にはもっと凶悪な犯罪をたくさんしている不法入国、不法駐留の外国人がたくさんいる」と反論しています。しかし、「不法入国、不法駐留の外国人」が大規模災害に際して「騒擾」を起こすと判断できる根拠はありません。
関東大震災では、朝鮮人に対する差別と偏見から生じた先入観から、まさに「治安維持」の主体であったはずの軍隊や警察が、「朝鮮人暴動」という流言を広めて人々の不安をあおり立てました。その結果、自警団を中心とした民衆による朝鮮人に対する虐殺が発生し、軍隊もそれに加わって、6千人以上とも推定される朝鮮人が殺されました。石原氏は4月12日の会見で「あの時は日本の当局が守り切れなかったから、朝鮮人に被害が出た」と述べていますが、この発言は右の事実に照らせば全くの誤認であって、むしろ実際は、軍隊や警察が危険な朝鮮人という予断を持っていたが故に、このような悲劇が起こったといえます。
大規模災害において、確たる根拠もない予断こそが、不法在留であるか否かを問わず、在日外国人に対する不当な迫害を生む土台となることは明らかです。歴史的観点からすれば、石原氏の発言は、いわれなき在日外国人差別を増幅させ、ふたたび関東大震災の時のような過ちをもたらしかねない危険性を孕んでいます。
なお、石原氏は4月12日の都庁での会見で「北鮮」という言葉を使っています。この言葉は日本が朝鮮を植民地支配している当時、朝鮮北部ないしは朝鮮東北部を指す言葉として使われ、さらに朝鮮民主主義人民共和国の成立の後には、その蔑称として使われてきたもので、石原氏の政治的立場にかかわらず、不適切な言葉遣いであることを指摘しておきます。
以上のように、石原氏の発言は誤った事実認識に基づくものです。これは、東京都知事としての権限と社会的影響力を持つ立場からは、無責任な発言だといわざるをえません。朝鮮史研究会は、石原氏の発言に含まれた事実認識の誤りを糾すとともに、歴史研究の成果を無視した発言に対して強く抗議します。
私たちは、在日朝鮮人が戦前・戦後をつうじて経験させられてきたさまざまな差別問題を正しく認識し、かつ現存する制度的差別(外国人登録証携帯義務など)あるいは社会的差別(就職差別など)の問題を是正していくことこそが、日本社会が取り組むべき緊要な課題であると考えます。この歴史的課題の解決なしには、在日外国人との共存という今日的課題も達成困難であると思われます。今回の事態を教訓とし、都関係当局においても、これらの課題に対して真摯に取り組むことを切望します。
最後に、私たちは、研究活動を通じて在日朝鮮人差別の解消に寄与できるよう、一層努力することを表明します。
朝鮮史研究会幹事会
石原都知事の「三国人」発言問題を考えるための資料・文献を紹介します
(関連リンク)
(文責・藤永壮)
石原東京都知事の「三国人」発言以前に、直接この言葉を分析対象とした研究は、実はそれほど多くない。わずかに次のような論考が存在する程度である。
(a)は、ある少年マンガ週刊誌に「三国人」という表現が掲載されたことをきっかけに、この言葉の意味や由来を、敗戦直後のGHQや日本政府の朝鮮人管理政策と連関させながら検討し、あわせてこの語に込められた屈折した排外意識を指摘した先駆的研究である。ただし「第三国人」という語が連合国側によって使用されはじめたかのような叙述は、この間明らかにされた事実から見ると、誤解であったと言わざるを得ない。この点は著者もいち早く気づいたようで、単行本に収載された改訂稿の(b)では「連合国起源説」に相当する部分が削除されている。(c)は地方自治体が編纂した地方史の叙述に登場する「第三国人」のイメージを分析した論考。また(d)の第三章第三節「吉田内閣の登場と「第三国人」批判」で紹介された資料から、1946年7月以降、日本の政府・保守政治家・マスコミなどが、在日朝鮮人に対する反感を煽っていく時期に、「第三国人」という言葉が使用された事例を確認することができる。
ところで朝鮮史研究会幹事会では、石原知事の「三国人」発言批判の声明を準備する過程で、「第三国人」という言葉の起源を連合国またはGHQに求める見解に、強く疑問を抱くようになった。このような問題意識を発展させ、幹事の一人である水野直樹氏は、最近発表した論文「「第三国人」の起源と流布についての考察」(『在日朝鮮人史研究』第30号、2000年10月、緑蔭書房発売)で、「連合国起源説」を明確に否定する見解を表明している。そこでは、「連合国・GHQ側がこの言葉を使ったことはほとんどなく、使われている場合でも実は日本側の言い方にあわせているに過ぎない」ことが明らかにされた。つまり「第三国人」は「日本の警察・マスコミ・官僚・政治家が使い始め、広めた言葉」ということになる。
上記論文はもちろん水野氏個人の責任で執筆されたものであるが、これまで朝鮮史研究会幹事会で議論されてきた論点を、実証的に裏付けた研究という性格をもっている。そこでここでは主として水野氏の見解に依拠しながら、公文書や法学者の論文などから「第三国人」という用語の代表的な使用例を紹介しておきたい。
最初に、法学者が「第三国人」をどのように定義していたのかを見ておこう。
【1】 (4)第三国人 こゝに第三国人といふのは、聯合国民及び中立国民、つまり外国人ではないが、同時に日本人と必ずしも地位を同一にしない、朝鮮人その他の「従来日本の支配下にあつた諸国の国民」(nationals of countries formerly under the domination of Japan)である。強ひていえば解放国民ともいへよう。普通に朝鮮人のほか、琉球人、台湾人が挙げられるが台湾人の地位は未決定なところがある。この第三国人はそれぞれの本国帰還に関して日本裁判所から受けた刑の判決を聯合国最高司令官に再審査して貰ふ特権を有する(一九四六年二月一九日「朝鮮人その他の国民に対して科せられた判決の再審査」に関する覚書、一巻八号司法三)。即ち司法権に関し一部特定の特権を有する。然しその他の点では原則として一般日本人同様、日本の司法権、行政権の下に立ち、特に地方的法律規則に従ふ。即ち外国人一般とは異なる地位にある。金融措置、課税、食糧配給、警察取締り等同様である。[註は省略] (高野雄一「外交官、外国人の一般的地位」『日本管理法令研究』第14号、1947年11月、28~29頁) |
この論文の末尾には「四六・一二・二五」と執筆年月日が記されている。つまり遅くとも1946年末までに著者は、上のような定義を「第三国人」という用語に与えていたことになる。しかし1946年末までにGHQや連合国側が「第三国人」に相当する語を使用した事例は確認できない。興味深いのは1946年7月の時点で、GHQの指令中に見られる「非日本人」(Non-Japanese Nationals)という言葉を、日本側が「第三国人」と言い換えている例が存在することである。
【2】 466. Memorandum concerning Applicability of Ordinary Taxes to Non-Japanese Nationals. 25 July 1646[ママ] 1. References are memoranda for General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers, from the Imperial Japanese Government, CLO No.2966(EF), 19 June 1946, subject: “Taxation on Foreigners in Japan” and LO 627, 6 June 1946, subject: “Taxation on Chinese Residents in Japan.” 2. There is no objection to the applicability of local and national ordinary taxation to all non-Japanese nationals except as specified in paragraph 3 below, provided that such taxes are not discriminatory against non-Japanese nationals. 3. No tax will be imposed by the Imperial Japanese Government on the occupation forces, and of personal accredited by the Supreme Commander for the Allied Powers as having a diplomatic status. 4. For purposes of this memorandum the term “ordinary taxes” includes all general taxes presently imposed by the Imperial Japanese Government and by the various local governments. This memorandum will not apply to the impending Capital Levy Law and other taxes of an extraordinary nature. (『日本管理法令研究』第13号、1947年10月、59~62頁) |
文書中の1646年は、もちろん1946年の誤りであろう。この覚書は、日本政府の「非日本人」に対する課税権限を、GHQが認める内容のものであるが、外務省は1950年に発行した文書集で、これを次のように翻訳していた。
【3】 非日本人に対する普通税の付課に関する総司令部覚書 AG 012.2(21年7月25日)ESS/FI (SCAPIN 1826-A) 昭和21年7月25日 覚書あて先 日本帝国政府 経由 東京,終戦連絡中央事務局 件名 非日本人に対する普通税の付課 1. 昭和21年6月19日付日本帝国政府発連合国総司令部あて覚書CLO2966(EF),件名,「在日外国人に対する課税」及び昭和21年6月6日付覚書LO627,件名,「在日中国人に対する課税」参照. 2. 後記第3項に特記されているものを除いて,すべての非日本人に対して地方及び国の普通税の付課について異議はない.但し,これらの税が非日本人に対して差別的でないことを条件とする. 3. 日本政府は,軍要員,占領軍に所属する非軍人及び外交官の身分をもつ者として連合国最高司令官が信任した要員の俸給に課税してはならない. 4. この覚書において「普通税」とは,日本帝国政府及び各地方自治団体が現在課しているすべての一般的な税を含むものである.この覚書は,近く実施される財産税法及び他の臨時的性質の税については適用されない. (外務省政務局特別資料課編『日本占領及び管理重要文書集――朝鮮人・台湾人・琉球人関係』1950年、147~148頁。引用は、同書の一部を復刻した『在日朝鮮人管理文書集』湖北社、1978年、による。) |
ここで【2】の”Non-Japanese Nationals”は、そのまま「非日本人」と直訳されている。ところが【2】の文書が発表された当時、日本政府はGHQの指令を速報する要約文書の中で、以下のように「非日本人」を「第三国人」と言い換えていたのであった。
【4】 五、在日本第三国人に対する課税問題に関する件(七・二五) 在日本第三国人は軍人、占領軍に従属する民間人及び最高司令部に依り外交官の特権を認められたものを除き、すべて日本の国税及び地方税を納めねばならぬ。尤も資本税その他の特別税はこの限りのものではないとの趣旨のものである。 (終戦連絡中央事務局総務部総務課『水曜速報』第25号、1946年8月7日、5~6頁〔影印本『日本占領・外交関係資料集――終戦連絡中央事務局・連絡調整中央事務局資料』第2巻、柏書房、1991年、85頁〕) |
1946年ごろ、GHQが朝鮮人・台湾人を指す言葉として使用したのは、資料【2】に見られるNon-Japanese か、あるいは Koreans、Formosansなどの語であり、むしろ日本側で「非日本人」を「第三国人」と言い換えるような措置がとられていたのである。こうした言い換えが、「第三国人」の「不法行為」がしきりに政治宣伝された時期と、ほぼ時を同じくしてなされていることは注目しておく必要があるだろう。
以上のように、中央のレベルでGHQが「第三国人」という語を使用した事例は確認できないのだが、連合国占領軍の地方軍政部による指令の中にも検討を要するケースがある。たとえば終戦連絡横浜事務局が1946年12月に作成した次の資料【5】では、同年8月29日、第8軍憲兵課長らが神奈川県警に対して「第三国人」への取締を指示したと述べている。
【5】 第三国人の経済法規違反行為取締の件 神奈川県当局では本年始めからこの間題について軍政当局へ陳情をしていたが、この点に関するGHQの指令に不明な点もあり最近までこれを看過するの外なかつた処、八月一日以降のやみ取引取締強化実施を機会に八月十三日第八軍幹部からの招請もあり県経済防犯課長出頭現状を説明し、更に二十九日第八軍憲兵課長及法務官の招請で県警察部長出頭、大約左の如き指図を受けたので直ちに積極的の取締りにとりかかることになつた。 一 横浜市の如き進駐軍の駐屯地では日本警察の要請に応じて進駐軍憲兵を日本警官に同伴出動せしめるから、日本側は憲兵隊の指揮の下で行動する形で第三国人に対する捜査、逮捕、抑留を行ふこと(裁判は進駐軍の法廷で行うこと) 二 進駐軍の駐屯せぬ土地では日本側の警察で単独に第三国人の捜査、逮捕、抑留をなすことが出来るが、直ちに最寄りの進駐軍部隊又は憲兵隊へ連絡してその指揮を受けること なお前記第八軍当局の説明では、右はGHQからの新たな指令があるまでの措置で、神奈川県でのみならず全国的に同様の方法で取締を行つてよいとのことである。又第八軍司令官はこの問題に重大な関心を持つておるから、各地共第三国人の不法行為は駐屯部隊へ報告をなしその協力を得て今後厳重に取締るべきであるとのことであつた。 (終戦連絡横浜事務局「YLO執務報告(昭和二十一年十二月)」横浜市総務局市史編集室編『横浜市史II』資料編I、横浜市、1988年、39頁) |
ここに箇条書きされた第8軍憲兵課長らによる指令は、「大約左の如き指図を受けた」という文言から、原文を要約したか、または口頭での指示を整理したものと推測されるが、どちらにしてもその英語原文は確認されていない。つまりこの資料からは、第8軍側が「第三国人」という用語を使ったかどうかは分からないのである。
次の【6】は、「第三国人」に相当する”Third Nationals”という英語表現を確認できる、唯一の使用例である。
【6】 Kyoto Military Government Team Apo 713 (Kyoto Honshu) Press Release: No.9. 3 June 1947 一九四七年六月三日附 (31)京都軍政部米陸軍郵便局発新聞掲載許可第9号 In view of the recent phenomenal increase of disputes involving “Therd[ママ] Nationals” over the evacuation of houses that have been referred to this office for mediation or settlement, we wonld[ママ] like to express our views as follows: 近来第三国人関係による借家明渡の紛争に就いて、本軍政部に調停を求めて来るものが著しく増加しつつあるに鑑み次の如き見解を発表するものである。 [中略] If there should be any member of the “Third Nations” who declared that he has no reed to obey the Japanese Civil Law because he is a foreigner or who uses such threatening language as that the house shall be requisitioned in the name of the Occupation Authorities, or who otherwise restore to violence intsmidation[ママ], or other unlawful conducts, then his case should be referred to the proper court. 三、若し第三国人が外国人たるの故を以て、日本民法に服する要なしとの論をなし又は進駐軍の名に於て接収するぞ等と嚇し文句を並べるとか又は暴力脅迫その他の不法行為に訴へるとかした者があつたら事件は専門の法廷〔註軍事裁判所又は日本裁判所を指す〕に移して処理さるべきである。 (越川純吉『日本に存在する非日本人の法律上の地位(特に共通法上の外地人について)』司法研修所、1949年、379~381頁) |
原文の”Therd Nationals”はもちろん”Third Nationals”の誤りであろう。京都軍政部は確かに「第三国人」という言葉を使用しているのだが、わざわざ引用符(” “)を付けているのを見ると、日本側が使用した「第三国人」という語を軍政部がそのまま英語に翻訳したと考えるのが自然だろう。
横浜と京都の事例は、地方軍政部が「第三国人」という言葉を使用した可能性を完全に否定するものではない。しかし注意すべき点は、これらの例が日本の議会やマスコミで「第三国人」の使用が定着した後に現れていることである。1946年の時点で地方軍政部の文書が主に使用しているのは、やはりNon-Japanese あるいは Koreans、Formosansなどの語であった。
以上、ここまでは「第三国人」という言葉の起源に関係する資料を中心に紹介してきたが、最後に「第三国人」という言葉がいわば「公式用語」として流通する契機となった、大村清一内務大臣の発言をとりあげておきたい。
1946年8月17日の衆議院本会議で椎熊三郎議員は、朝鮮人や台湾人が、日本敗戦と同時に「恰モ戦勝国民ノ如キ態度ヲナシ、其ノ特殊ナル地位、立場ヲ悪用シテ」、日本の法と秩序を無視し、傍若無人の振る舞いを行っていると非難したうえで、朝鮮人の密航、闇取引などを取り締まるよう政府に要求した。この椎熊発言は、在日朝鮮人に対する偏見を煽るものとして、ただちに厳しい批判を受けるが、「第三国人」という言葉そのものは登場していない。
「第三国人」という語は、椎熊の質問に対する大村清一内相の答弁の中で使用されることになる。
【7】 ○国務大臣(大村清一君)[中略] 次ニ第三国人ニ依リマシテ、或ハ闇市場ニ於ケル各種ノ好マシカラザル行為ガ頻々トシテ行ハレテ居ルコト、或ハ列車ノ中ニ於ケル暴状、不正乗車、是等見ルニ忍ビザル行為ニ付キマシテハ、国民斉シク不快トセラレ、又是ガ我ガ国ノ治安ヲ攪乱スル一ツノ重大ナ要素デアルト云フ点ニ付キマシテ、多大ノ憂慮ヲ寄セラレテ居リマスコトハ、私共洵ニ恐縮ニ存ジテ居ル所デアリマス、幸ヒニシテ列車ノ暴状ニ付キマシテモ、数次ノ厳重ナル取締ニ依リマシテ、逐次改善ヲ致シテ居ルコトハ明カデアリマス、此ノ点ニ付キマシテハ更ニ鉄道警察力ノ整備ト云フヤウナコトモ致シマシテ、列車内ニ於ケル暴状ハ断然之ヲ根絶スルト云フ所マデ、取締ヲ強化スル決心デ居リマス 尚又露店ノ暴状ニ付キマシテハ、予テ相当ノ取締ハ致シテ居ツタノデアリマスガ、八月一日ヲ期シマシテ断乎タル取締ヲスルト云フ方針ヲ確立致シマシテ、東京、大阪其ノ他ノ大都市ヲ初メ、逐次地方二亙ルマデ取締ノ徹底ヲ期シテ居リマスガ、其ノ実績ハ幸ヒニシテ予期以上ノ効果ヲ収メテ居ルト申上ゲテ毫モ差支ナイト思フノデアリマス、今後一層取締ヲ厳ニシ――又一面ニ於キマシテハ所謂青空市場ノナクナリマシタ為ニ、一般民衆ニ与フル不便ヲ救フ、乃至ハ戦災者、帰還者其ノ他洵ニ気ノ毒ナ人々ガ、青空市場ニ於テ生計ヲ立テテ居ルト云フコトモ少クナイノデアリマス、是等ノ人々対シマシテモ適切ナル方途ヲ講ジマシテ、闇市場ト云フヤウナ不法ナ商売デナク、正業ニ依リマシテ生計ヲ立テル、又一般民衆モ闇市場ニ依ラズシテ、公正ナル市場カラ需要品ヲ容易ニ買ヒ得ルト云フ所ニ目標ヲ置キマシテ、各省協力致シ、ソレ等ノ施策ト相俟チマシテ、闇取引ノ根絶ヲ期スルコトニ邁進スル決心デ居リマス 尚ホ第三国人ノ課税問題、又取締ノ徹底問題ニ付キマシテハ、今日只今ノ所ニ於キマシテハ、裁判管轄ノ点ニ於キマシテ結論ニ達シテ居ナイ点ガアリマスガ、此ノ点ニ付キマシテハ目下政府二於キマシテ極力解決ニ努力ヲ致シテ居リマス、速カニ是ガ解決ヲ致シマシテ、第三国人ハ我ガ国民ト同等ノ機会ニ恵マレマシテ、公正ナル営業取引ヲ致スコトニスルコトガ絶対的ニ必要デアリマスノデ、政府ト致シマシテハ、此ノ点ニ付キマシテ深甚ノ考慮ト遺憾ナキ努力ヲ致シマシテ、国民ノ御期待ニ副フヤウニ努メル決心デアリマス (『官報号外』1946年8月18日、衆議院議事速記録第30号、454~455頁) |
前掲水野論文によれば、これが議会で「第三国人」という言葉が使用された最初のケースのようである。マスコミでの使用例は今のところ1945年末にまでさかのぼることができるものの、内務大臣の発言は、「第三国人」に「公式用語」としての「正当性」を付与する役割を果たしたと考えられる。(その他、日本の政府・政治家・マスコミなどが、具体的にどのような「第三国人」イメージを流布し、定着させていったのかについては、すでに前掲の諸論文が叙述しているところなので、そちらを参照していただきたい。)
さて「第三国人」という言葉を使い始め、広めたのが、日本の政府・政治家・マスコミなどであったとすれば、この語の歴史的性格はいっそう明確になったと言えるだろう。すなわち水野氏が前掲論文で指摘するように「「第三国人」という言葉は、朝鮮人や台湾人は凶悪な犯罪者、日本社会の秩序と安全を脅かす恐怖の存在というイメージを広め固着させるために使われた言葉だったのである」。こうして闇市などで「第三国人」が「不法行為」を行っているというイメージは、不当に誇張、宣伝され、従前からの差別意識と結びつきながら、日本人の意識の中に沈殿していったものと考えられる。
石原都知事は、大規模災害時における自衛隊出動の必要性を強調するために、「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」と述べた。敗戦直後に「第三国人」に対する否定的なイメージが流布された背後にも、当時の経済的混乱の責任を「第三国人」に転嫁し、あわせて朝鮮人・台湾人への取締強化を正当化しようとする意図が存在していたと考えられる。すなわち、ある特定の政治目的のために排外意識を利用しようとする手法は、両者に共通しているのである。その意味で石原発言のねらいは、「不法入国した外国人」=犯罪者という、新たな“「第三国人」イメージ”をつくりだすところにあったと言えよう。
インターネット・サイト
論文
単行本
(作成・廣岡浄進)
韓国大法院判決への日本政府・当該企業・メディアの対応に対する声明
PDF版
2018年10月、大韓民国(韓国)の大法院(最高裁判所)は、韓国人強制動員被害者の訴えを認めて、新日鉄住金(現在の日本製鉄)に対して賠償を命じる判決を確定させました。その後、2019年1月にかけて、同様に、三菱重工業、不二越および日立造船に賠償を命じる大法院の3つの判決が続きました。これらの判決を受けて日本政府は、1965年の日韓請求権協定によって「解決済み」だ、「国際法違反」だとして、韓国政府に対して抗議を行いました。朝鮮史研究の蓄積と学術的観点からみて、「解決済み」とする日本政府の主張は歴史的な事実を無視するものです。
2019年7月以降、日本政府は韓国への輸出管理を強化しました。これは大法院判決とそれへの韓国政府の対応に対する報復措置だと受け止められました。この措置は日本と韓国の友好と平和に反する行為だと言わざるを得ません。以下、私たちの見解を表明します。
1.植民地支配下の戦時強制動員・強制労働の歴史を公正に語るべきです
大法院判決は、不法な植民地支配下での戦時強制動員・強制労働への損害賠償(慰謝料)が日韓請求権協定では未解決だとするもので、加害企業の反人道的行為があったことを認め、被害者の人権の回復を求めるものでした。ところがこの間、日本政府と日本の主要メディアは日韓請求権協定で「解決済み」との主張を繰り返すばかりで、日本による反人道的行為や被害者らの人権侵害の歴史についてはほとんど語ろうとしていません。これまでの朝鮮史研究によって、数多くの朝鮮人が戦時下での「募集」「官斡旋」「徴用」などの政策にもとづいて強制動員され、厳重な監視の下で苛酷な労働を強いられていたことが明らかにされています。違法な強制労働があったことは日本での裁判でも事実認定されています。まず日本政府とメディアは被害者がなぜ、どのようにして強制動員・強制労働をさせられたのか、学術研究にもとづいて歴史を公正に語ることから始める必要があります。そのことを語らずして「解決済み」だと主張し続けることは、日本の加害行為と被害者らの人権侵害の歴史を覆い隠してしまうことになります。
2.日韓請求権協定では解決されていません
2005年以降の日韓での外交文書の新たな公開により日韓請求権交渉に関する研究が進展し、請求権交渉とその結果締結された請求権協定では、強制動員被害者に対する真実究明、謝罪および賠償などの責任は果たされなかったことが明らかにされました。植民地支配を合法で正当なものだとする日本政府と韓国併合条約は当初から無効だったとする韓国政府の見解が対立し、植民地支配に対する歴史認識については合意に至らなかった交渉過程の詳細も明らかになりました。請求権交渉においては、日韓の「財産」「請求権」のみが議論され、請求権協定では、日本から工場施設や原材料などを韓国に無償・有償で提供する「経済協力」を以って、「財産」「請求権」問題に限って「完全かつ最終的に解決された」こととされました。日本の植民地支配責任・戦争責任と強制動員被害者の人権侵害という論点については交渉の議題にはなりませんでした。強制動員被害者に対する責任は、果たされることなく未解決の課題として残されたのです。
3.強制動員・日韓会談関連資料の公開を求めます
韓国政府は2004年に、「日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法」を制定し、強制動員被害の本格的な真相糾明作業を開始しました。それに対して日本政府は、韓国政府の要請に応じて強制動員被害者の名簿などを引き渡し、また被害者と日韓市民の文書公開要求運動を受けて日韓会談文書の大半を公開しましたが、強制動員された労働者については、本格的な資料調査・公開は行っていません。日本政府は、強制動員・強制労働に関連する非公開の歴史資料や非開示の日韓会談文書などを調査し、公開すべきです。また強制動員・強制労働に関与した当該企業も、所有する資料を調査し、公開することが求められています。
4.日本政府と当該企業は「過去の克服」に向けての責務を果たすべきです
韓国政府は2005年、「国家権力が関与した反人道的不法行為については、請求権協定により解決されたものとみることができず、日本政府の法的責任は残っている」との官民共同の諮問委員会による答申を受けました。その上で強制動員被害者問題については、「被害者の痛みを治癒するため、道義的・援護的次元と国民統合の側面から政府の支援対策を講じる」方針を打ち出しました。この方針に基づいて2007年には「太平洋戦争前後の国外強制動員犠牲者等の支援に関する法律」、2010年には「対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等の支援に関する特別法」を制定し、国家レベルで被害者への支援措置を行ってきました。一方、日本政府と当該企業は「解決済み」を繰り返すばかりで、被害者への支援措置は行ってきませんでした。日本政府と当該企業は、植民地支配責任の観点に立って、その過去を克服するために、植民地支配下での加害・被害の事実と法的責任を認めて謝罪と賠償を行い、被害と加害の事実について将来世代に教育する、という責務を果たす必要があります。これは、朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化という重要な課題を遂行する上においても、不可欠の責務です。
5.排外主義を克服して基本的人権が尊重される社会を作る必要があります
日本政府は大法院判決とそれへの韓国政府の対応に対して「暴挙」「無礼」などと露骨で一方的な批判を行い、日本のマスコミの多くは、そうした日本政府の姿勢を無批判に報道してきました。これまで地道に積み重ねてきた日韓間の交流が、中断を余儀なくされています。そして在日朝鮮人を含め、朝鮮・韓国への憎悪や差別を煽るような言動がテレビ、新聞、雑誌やSNS上に拡散し、甚だしくは暴力を扇動する発言まで公然と流布しています。日本社会は、朝鮮人を差別し排除する植民地主義を戦後も克服できずにきました。今日、日本社会の中で影響力を強めつつある排外的な言動に立ち向かい、出自に関わりなく基本的人権が尊重される社会を作っていく必要があります。私たち朝鮮史研究者は、学術的見地からこの課題に真摯に取り組んでいきます。
2019年10月29日
朝鮮史研究会
한국 대법원 판결에 대한 일본 정부, 해당 기업, 언론의 대응에 관한 성명
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2018년 10월 한국 대법원은 한국인 강제동원 피해자들의 호소를 인정하고 신일철주금(현, 일본제철)에 배상을 명하는 판결을 확정했습니다. 이후 미쓰비시 중공업, 후지코시, 히타치 조선에도 마찬가지로 배상을 명하는 대법원의 세 판결이 2019년 1월까지 이어졌습니다. 이러한 판결에 대해 일본 정부는 1965년 한일 청구권협정으로 “해결되었다”, “국제법 위반”이다, 라고 하며 한국 정부에 항의했습니다. 조선사(Korean history) 연구의 축적과 학술적 관점에서 볼 때 “해결되었다”는 일본 정부의 주장은 역사적 사실을 무시한 것입니다.
2019년 7월 이후 일본 정부는 한국에 대한 수출 관리를 강화했는데, 대법원 판결과 한국 정부의 대응에 대한 보복 조치로 간주되고 있습니다. 이 조치는 일본과 한국의 우호와 평화에 반하는 행위라고 할 수밖에 없습니다. 이에 아래와 같이 저희들의 견해를 표명하는 바입니다.
1.식민지 지배 하의 전시 강제동원・강제노동의 역사를 공정하게 이야기해야 합니다.
대법원 판결은 불법적 식민지 지배 아래 수행된 전시 강제동원・강제노동에 대한 손해배상(위자료)이 한일 청구권협정으로는 해결되지 않았다고 판단한 것으로, 가해 기업의 반인도적 행위가 있었음을 인정하고 피해자의 인권 회복을 촉구한 것이었습니다. 그런데 최근 일본 정부와 일본의 주요 언론은 한일 청구권협정으로 “해결되었다”는 주장을 되풀이할 뿐, 일본에 의한 반인도적 행위와 피해자들의 인권 침해의 역사에 대해서는 거의 말하려 하지 않습니다. 지금까지의 조선사 연구에 의해, 수많은 조선인들이 전시 하에서 ‘모집’ ‘관알선’ ‘징용’ 등의 정책에 근거해 강제동원되었고 엄중한 감시 하에서 가혹한 노동을 강요받았다는 사실이 밝혀졌습니다. 위법한 강제노동이 있었음은 일본에서 진행된 재판에서도 사실인정된 바 있습니다. 우선 일본 정부와 언론은 피해자들이 왜, 어떻게 강제동원・강제노동을 당했는지에 관한 역사를 학술 연구에 근거하여 공정하게 이야기하는 것부터 시작할 필요가 있습니다. 이 역사를 말하지 않고 계속 “해결되었다”고만 주장한다면 일본의 가해 행위와 피해자들의 인권 침해의 역사는 은폐되고 맙니다.
2.한일 청구권협정으로는 해결되지 않았습니다.
2005년 이후 한일 양국에서 그때까지 공개하지 않던 외교문서를 공개함으로써 한일 청구권교섭에 대한 연구가 진전되었고, 청구권교섭과 그 결과 체결된 청구권협정으로는 강제동원 피해자에 대한 사실 규명, 사죄 및 배상 등의 책임이 끝나지 않았다는 사실이 밝혀졌습니다. 식민지 지배를 합법적이자 정당한 것으로 보는 일본 정부와 한국병합 조약은 애초에 무효였다고 보는 한국 정부의 견해가 대립하여, 결국 식민지 지배에 관한 역사 인식에 대해서는 합의하지 못했다는 교섭 과정의 구체적 내용도 밝혀졌습니다. 청구권교섭 과정에서는 한일 간의 ‘재산’ ‘청구권’만 논의되었고, 청구권협정에서는 일본이 한국에 공장 시설 및 원재료 등을 무상・유상으로 제공하는 ‘경제협력’을 통해 ‘재산’ ‘청구권’ 문제에 한해서 “완전히 그리고 최종적으로 해결된 것이 된다”라고 마무리되었습니다. 일본의 식민지 지배 책임 및 전쟁 책임, 그리고 강제동원 피해자들의 인권 침해라는 논점에 대해서는 교섭의 의제가 되지 못했습니다. 강제동원 피해자들에 대해서는 아무런 책임도 지지 않은 채 미해결 과제로 남겨지게 되었습니다.
3.강제동원, 한일회담 관련 자료 공개를 촉구합니다.
2004년 한국 정부는 ‘일제강점하 강제동원피해 진상규명 등에 관한 특별법’을 제정하여 강제동원 피해에 대한 본격적인 진상규명 작업을 시작했습니다. 이에 일본 정부는 한국 정부의 요청에 응하여 강제동원 피해자 명부 등을 전달하고 피해자와 한일 시민들의 문서공개 요구운동에 응하여 한일회담 문서 대부분을 공개했습니다. 하지만 강제동원되었던 노동자에 대해서는 본격적인 자료 조사와 공개가 이루어지지 않고 있습니다. 일본 정부는 강제동원・강제노동에 관한 비공개 역사자료 및 아직 개시되지 않은 한일회담 문서 등을 조사하고 공개해야 합니다. 그리고 강제동원・강제노동에 관여한 해당 기업도 기업 소장 자료를 조사, 공개할 것을 촉구하는 바입니다.
4.일본 정부와 해당 기업은 ‘과거의 극복’을 위한 책무를 다해야 합니다.
한국의 민관공동위원회는 2005년, ‘국가권력이 개입한 반인도적 불법행위는 청구권협정으로 해결되었다고 볼 수 없으며 일본 정부의 법적 책임은 남아 있다’라는 논의 결과를 발표했습니다. 한국 정부는 이 결과를 받아 강제동원 피해자 문제에 대해서 ‘피해자의 아픔을 치유하기 위한 도의적・원호적 차원, 그리고 국민통합적 차원의 정부 지원 대책을 마련’하겠다는 방침을 세웠습니다. 이 방침에 따라 2007년 ‘태평양전쟁 전후 국외 강제동원희생자 등 지원에 관한 법률’을 제정하고 국가 차원에서 피해자 지원 조치를 시행해 왔습니다. 한편 일본 정부와 해당 기업은 “해결되었다”는 말만 되풀이할 뿐 피해자들에 대한 지원 조치는 취하지 않았습니다. 일본 정부와 해당 기업은 식민지 지배 책임의 관점에서 이 과거를 극복하기 위해 식민지 지배 하의 가해・피해 사실과 법적 책임을 인정하고 사죄와 배상을 하고, 미래 세대에게 피해・가해 사실을 가르쳐야 한다는 책무를 다할 필요가 있습니다. 이는 조선민주주의인민공화국과의 국교정상화라는 중요한 과제 수행에 있어서도 반드시 수행되어야 할 책무입니다.
5.배외주의를 극복하고 기본적 인권이 존중받는 사회를 만들 필요가 있습니다.
일본 정부는 대법원 판결과 이에 대한 한국 정부의 대응에 대해서 ‘폭거’ ‘무례’ 등의 단어로 노골적, 일방적으로 비판하고 있고, 많은 일본의 언론은 이러한 일본 정부의 자세를 무비판적으로 보도하고 있습니다. 지금까지 착실하게 쌓아온 한일 간의 교류가 중단될 지경에 이르렀습니다. 그리고 재일조선인을 포함한 조선・한국에 대한 증오와 차별을 선동하는 듯한 언동이 텔레비전, 신문, 잡지 및 SNS 상에 확산되고 있고, 심지어는 폭력을 부추기는 발언까지 공공연히 유포되고 있습니다. 일본 사회는 조선인을 차별하고 배제하는 식민주의를 전후 지금까지도 극복하지 못하고 있습니다. 오늘날 일본 사회 내부에서 영향력이 커지고 있는 배외적 언동에 대항하여 출신과 상관없이 기본적 인권이 존중받는 사회를 만들어 나갈 필요가 있습니다. 우리 조선사 연구자들은 학술적 견지에서 이러한 과제에 대해 진지하게 고민하고 행동해 나가겠습니다.
2019년 10월 29일
조선사연구회
THE SOCIETY FOR KOREAN HISTORICAL SCIENCE